難病の障害児を多く診る小児科医の吉岡三惠子医師は、震災後、仕事が一つ増えた。患者の薬の名前や量を小さなメモ用紙に記入して渡す仕事だ。地震直後に殺到した薬の問い合わせがきっかけだった。
「私あてだけで、地震から一カ月間に二百件の電話があった。特に子供の抗てんかん薬は量が変わりやすく、親も覚えていない。よく説明しておくべきだった」
取り組みの背景には、重度障害児の死があった。
地震から数日後、小山美奈子さん(42)=仮名=は、神戸市長田区北部の避難先から病院へ電話をかけ続けた。養護学校に通う十歳の二女に脳性麻痺(のうせいまひ)の障害があり、薬が欠かせなかった。
抗てんかん薬は、残り数袋になっていた。一日欠いても激しいけいれんが起きる。薬の補給が必要だったが、一包には数種類の粉薬が混ざり、処方した吉岡医師にしか正確な量が分からなかった。ほんのわずか量が違っても効果は期待できない。公衆電話の長い列に並んだ。医師とは結局、接触できなかった。
少女は、染色体異常の難病で、立つことも話すこともできなかった。兵庫区の自宅は半壊。避難所には被災者があふれ、白い息が室内を覆った。ガラス細工のように繊細な重度障害児に耐えられる所でなかった。周囲に迷惑をかけてはと、家族四人が車の中で一夜を過ごした。
十八日夜は長田区の知人宅へ。処方を聞いて同じ薬を入手するのにさらに三日かかった。その間、風邪とストレス症状が小さな体をせめた。
一月末、一家は長時間かかって大阪の親せき宅に移ったが、少女の体調は急変し、二月一日、肺炎で死亡した。小山さんは「薬の調達と避難に気を取られ、体調悪化に気付くのが遅れた」と、無念の思いを漏らした。
少女の死につながった薬への不安。程度に差はあれ、難病の障害児(者)や病弱者の共通の悩みである。
日本てんかん協会は、地震から二カ月間、神戸市中央区の支援センターで約百二十人に薬を提供したが、薬を知っていたのは半数にも満たなかった。同会兵庫県支部の坪田大典代表は「医師に頼りきる受け身の姿勢が、薬への無知につながったのでは」と話す。
二月四日、同支部は会員三百人にテレホンカードサイズの「緊急カード」を配布した。吉岡医師の処方メモと同じ用途。先行する京都府支部では十四万枚のカードを作り、患者のプライバシーの保護に配慮した非常時の備えを始めた。
安心できる避難場所の確保という問題も残った。
知的障害の二十五歳の青年は、病院や避難所に入れず、庭のプレハブ小屋で体調を崩し、地震の十一日後に亡くなった。母は「情報が入らず、家族で頑張るしかなかった」と、小山さんと同じ悔しさを訴えた。
全国障害者問題研究会(全障研)兵庫支部が被災地の障害児を対象に実施したアンケート調査では、避難所に行った家庭は、ほぼ三軒に一軒。興奮して騒ぐ知的障害の子供を抱え、避難所へ行くことを断念した家族は少なくなく、「気がねなく避難できる場所の確保」を地震直後に最もしてほしかったサービスとして挙げる人が多かった。
少女が通った養護学校の教諭は「難病の障害児(者)は、元気に見えても周囲の配慮が行き届いた中で命を保っている。家族の力だけでは支えられないことをもっと周囲が自覚しておくべきだった」と語った。周囲の配慮も、もろいものだったと・。
1996/2/1