魚群探知機やレーダーといった船舶用電子機器で、世界トップシェアを誇る古野電気(兵庫県西宮市)。類いまれな“ニッチトップ”の技術集団をけん引するのが古野幸男氏(75)だ。創業者の娘婿として古野電気に入社して約40年。2007年3月から社長として、船舶の自動運航や洋上風力の関連技術まで幅広い領域での事業展開を視野に入れながら指揮を執る。
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技術が大きく変化する時代には先行的な投資が必要です。(現在見据えているのは)スマート漁業や自動運航。スマート漁業では、船舶に搭載した航海計器やセンサーから集めたデータなどを解析し、勘や経験で動く漁業者に、より迅速に必要な判断ができるサービスを提供する。お客さまの困り事をいかにつかまえるか。この点で(世界で高いシェアを持つ)われわれの力が発揮できるはずです。
1948年、銀座や日本橋のある東京都中央区に生まれた。7人きょうだいの末っ子だった。
父親は、尋常高等小学校を出て、当時問屋が多かった日本橋ででっち奉公から始め、海藻問屋を個人で営んでいました。きょうだいで、私だけが戦後生まれの団塊世代。戦時中の東京大空襲はひどかったと母から聞いたことがあります。
小学生の時、メルボルン五輪(1956年)で日本選手の活躍を見て、高揚したのをよく覚えています。五輪やプロ野球をラジオ、新聞で興奮しながら見聞きし、勝率や打撃成績などにすごく興味を持って書き出すことに没頭していました。
深いところまでいかなくても、とにかく何でも知りたくなる。「物事の背景や過去との関連性を整理して理解したい」。そんな性格は今も変わっていません。
都立上野高を経て67年、一橋大に入学。学生運動が盛んな時代だった。
(戦後日本の代表的な社会学者)清水幾太郎さんに興味がありました。社会学部に入ったのですが、勉強は全然しませんでした。ボート部が華やかだったので入部したのですが、お尻の皮がはがれて、手は腱鞘(けんしょう)炎になるし。数カ月で断念しました。あとは、兄のつてで家庭教師を週2、3回したり、高校のバスケットボールの指導をしたりしていました。
当時は学生運動が全国に広がり、3年生の時には大学が封鎖されました。ノンポリでしたので、学校封鎖が解けて4年生の4月くらいでしょうか、そろそろ学校に行って就職活動でもしようかと思っていたら、みんなもう「決まっている」と言うんです。
地方から来ている学生が多く、みんなは寮にいたり学校の周辺にいたりして情報が集まるんですが、都心から通っている私は「えっ、みんな決まっているの?」って。大方の大企業は、採用活動を終えていました。どこか採ってくれるだろうという気持ちがあったんです。高度経済成長期で景気が良く、採用枠も広がっていましたから。いいかげんでした。
会社を紹介してくれる知人もいましたが、何とか自分の力でと思いました。5月くらいでしょうか、帝人の採用試験があると分かり、名前も知っていたので、入社試験を受けました。千代田区内幸町の飯野ビルディングでした。
その時は東京の会社だと思っていたんです。配属は人事関係の仕事がいいかなとも。ところが、研修の後、配属先は「営業」と告げられました。しかも、繊維産業の中心地「大阪」へ行くことになったんです。(聞き手・大盛周平)
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時代を駆ける経営者たちの半生や哲学を紹介するマイストーリー。7人目は、古野電気の古野幸男社長に語ってもらう。
【古野電機】1938(昭和13)年に長崎県口之津町(現南島原市)で古野電気商会として創業。48年、魚群探知機の実用化に世界で初めて成功した。55年に古野電気設立。64年に本社を西宮市へ。魚群探知機やレーダー、衛星利用測位システム(GPS)関連機器を世界展開。2023年2月期連結売上高は913億2500万円。
【ふるの・ゆきお】1948年、東京都中央区生まれ。都立上野高、一橋大社会学部卒。71年帝人。84年古野電気。管理本部副本部長などを経て87年に取締役。2007年3月から現職。11年から西宮商工会議所副会頭。21年、藍綬褒章。趣味のサイクリングでは自宅のある西宮市から神戸・元町まで出向くことも。