「青辰(あおたつ)の穴子寿司(ずし)」「杵屋(きねや)の饅頭(まんじゅう)」、母の食べ物のリクエストは、今は手に入らないものばかりだ。彼女は80年前の神戸に住んでいる。昭和20年3月、12歳の誕生日と中学入学を目前にして、家も学校も焼失した。生活は一変し、小さな弟と親戚の家を転々とした。どこからでも海が見えたという空襲後の神戸を、母はいつも語っていた。
しかし病状が悪化してから、焼け跡から先、戦後77年間の記憶が抜け落ちはじめ、代わりに繰り返し話すようになったのが、戦前に暮らした街のにぎわいである。それに加えて「戦争さえなければ、こうしたかった、ああなりたかった」という話だ。
この記事は会員限定です。新聞購読者は会員登録だけで続きをお読みいただけます。