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(5)阪神高速(下) 届かぬ警鐘告白と反省
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阪神・淡路大震災前、当時の阪神高速道路公団が出していたパンフレットの写し。「南海大地震級に対しても耐えられる」とあった
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阪神・淡路大震災前、当時の阪神高速道路公団が出していたパンフレットの写し。「南海大地震級に対しても耐えられる」とあった

阪神・淡路大震災前、当時の阪神高速道路公団が出していたパンフレットの写し。「南海大地震級に対しても耐えられる」とあった

阪神・淡路大震災前、当時の阪神高速道路公団が出していたパンフレットの写し。「南海大地震級に対しても耐えられる」とあった

 2003年1月28日、神戸地裁尼崎支部で下された「阪神高速倒壊訴訟」の判決。渡邉安一裁判長は阪神高速道路公団(現・株式会社)の過失責任を問う遺族の訴えを棄却した。そして、阪神・淡路大震災前の地震研究を、こう断じた。

 「工学的な指針として耐えうるほど確立した知見があったとは言い難い」。つまり、地震学者らは危険性こそ指摘したが、公団や国を対策に踏み込ませるレベルには達していなかったというのだ。

 道路公団が震災前に営業に使っていたパンフレットには、こうある。

 「阪神高速道路の構造物は、南海大地震級に対しても十分耐えられる設計となっています」

 公団の耐震設計基準によると、想定する地震は、①「阪神地方から150キロ程度離れた紀伊半島沖で発生するマグニチュード(M)8・0~8・5」、②「50キロ以内で発生するM6・5~7・0」の二つだった。

 ②を見る限り、阪神・淡路のM7・3は、規模も震源域もほぼ当てはまっている。ただし、この「50キロ以内」とは、過去に地震が起きた大阪府の南河内地方、つまり、阪神地方から「50キロ付近」を指し、“足元”に潜むとされる「未知の直下地震」は視野に入れていなかった。

 それでも公団は、設計は記録上最大となる関東大震災級の加速度「300~400ガル」に対応していたと主張する。地震は現場付近で「500ガル程度」との推定が裁判所に採用され、「想定が甘かったとはいえない」の司法判断が下された。

 1970年代から神戸・阪神間に直下地震の警告を発してきた神戸大名誉教授の故・三東哲夫は震災の約1年後、神戸新聞記者にこんな手紙を送っている。

 「『いつ起こってもおかしくない』程度の表現では、まともに受け入れられないのも当然だろう。地震学者の忠告が受け入れられるためには、少なくとも予知が具体的な観測事実を添えてなされなければ」

 阪神・淡路の警鐘は結局、未成熟で押しが弱かったのだという告白と反省だった。

 だが、果たしてそれだけなのか。原告側の証言に立った米ノースウエスタン大学の元客員研究員で鉄筋コンクリート構造学者の富永恵(76)は、当時の土木工学や耐震工学の学者たちを「事故原因を突き止めずに企業側と一緒になって想定外で終わらせようとする“原子力村”と同じだった」と言い切る。

 阪神高速の耐震に関わった学者たちは、「予想できなかった。だから落ち度はない」。そんな説明を外向きに繰り返した。倒壊事故は、2007年の柏崎刈羽原発事故、昨年の福島第1原発事故と続く、責任回避の構図の始まりのように、富永には思える。

 訴訟を起こした西宮市の萬(よろず)みち子(88)は東日本大震災後、週刊誌に掲載される記事を切り抜いて記録するようになった。「原発は安全」と公言していた学者が、状況の悪化に伴い、発言を変えていく。

 トラックを運転中に高速道路が崩れ、51歳で他界した息子、英治の言葉を思い出す。「日本の高速道路は安全や。えらい学者が絶対大丈夫って言うてるから」

 震災後、耐震強度を見直した阪神高速は、「阪神・淡路級の地震が起きても耐えられる」と説明する。だが、東日本大震災後、新たな津波対策に迫られている。(敬称略)

2012/1/19
 

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