連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

(1)神戸の防災計画(上) 直下地震 20年前に警告
  • 印刷
直下地震が神戸に起きる可能性を報じた1974年6月26日付の本紙
拡大

直下地震が神戸に起きる可能性を報じた1974年6月26日付の本紙

直下地震が神戸に起きる可能性を報じた1974年6月26日付の本紙

直下地震が神戸に起きる可能性を報じた1974年6月26日付の本紙

 6434人が命を落とした阪神・淡路大震災から間もなく17年となる。昨年、東日本大震災で頻繁に使われた「想定外」は、私たちが再び耳にする言葉だった。防災の生命線ともいえる想定が、繰り返し机上の空論に終わったのはなぜか。歴史に埋もれたその“茂み”に分け入りたい。(安藤文暁、上田勇紀、小川晶)

 東日本大震災から半年が過ぎた昨年9月20日、神戸市の元職員が大阪府内の病院でひっそりと息を引き取った。

 阪神・淡路大震災前、総務局で防災担当主幹を務めた吉沢博。震災直後、重度のうつ病に陥り、話すことも歩くこともできなくなった。

 多くの命が犠牲になるのを目の当たりにし、自責の念に駆られたのだと、死の1カ月後、玄関先で妻が語った。「夫は納得できる備えをしたかったが、組織の判断もあってできなかったんです」

 かつて市の「地域防災計画・地震対策編」のまとめ役を務めた吉沢。17年前の悔恨は何も語らず、85歳で生涯を閉じた。

 結果として地震の脅威に思い至らなかった防災計画。それは市当局が「議事録も、関連資料も残っていない」として、今だ検証しきれていない過去だ。阪神・淡路大震災前に時計の針を戻そう。

    ◆

 1973年秋。三宮のフラワーロードで足を止め、大阪市立大助手だった塩野清治(65)は「これは危ないですね」と、手にした写真を見た。

 終戦直後に米軍が撮った航空写真。そこに写る空襲の焼け野原は、地表に浮かび上がる段差をさらけ出していた。

 活断層である。それは市街地に延び、将来起こりうる直下地震の危険性を物語っていた。だが、塩野が見渡す一帯は既に整地され、ビルや店舗がひしめいていた。

 地震をめぐるプレート理論が60年代後半に登場し、断層が地震を起こす仕組みが急速に分かりつつあった。「もし動けば壊滅的ですね」。塩野は、調査団を率いる同大助教授だった故・笠間太郎と顔を見合わせた。

 関東を中心に防災対策が進んでいた。64年には死者26人に上る新潟地震が発生。地震学者らが関東大地震の「69年周期説」を唱え、再来時期は約20年後とされていた。

 調査を依頼したのは神戸市だった。国の地震予知連絡会は70年、阪神間を特定観測地域に指定。72年、大阪市立大と京大がチームを組んだ。笠間らは2年かけて「神戸と地震」と題した報告書をまとめ、神戸に都市直下地震が起こる恐れを指摘した。

 だが、「肝心の発生時期が分からなかった」と、現在、名誉教授の塩野は振り返る。神戸には実際に直下地震が起きた記録がなく、微小な地震も観測できなかった。

 「断層がスルスルと滑ってエネルギーを解放しているか、それともため込んでいるか。報告書は疑念を残したまま、警鐘を込めて思い切って出したものだった」

 74年6月26日の神戸新聞夕刊。1面に「神戸にも直下地震の恐れ」の見出しが躍った。一方で、記事には「十万年単位の長期警告」との識者の見方も添えられた。

 神戸には過去、震度6を超える地震が起きたとの記録がなく、安全神話が広がっていた。「万年単位と言われ、私を含めて現実的な問題として認識するには、あまりに遠い話だった」。担当した本紙の元記者は述懐する。

 報告書の存在は、数年後には市の幹部でさえ忘れられたものとなった。そして阪神・淡路大震災が起こるまで、再びメディアに登場することはなかった。(敬称略)

2012/1/14
 

天気(9月9日)

  • 33℃
  • 27℃
  • 30%

  • 34℃
  • 24℃
  • 40%

  • 35℃
  • 28℃
  • 20%

  • 35℃
  • 26℃
  • 20%

お知らせ