その年配の夫婦が帰ったあと、不意にこみ上げてくるものがあった。部屋で一人になると、こらえきれずに涙が流れた◆阪神・淡路大震災から十年目に入った昨春、神戸新聞の発言欄に載った佐野武さん(47)=神戸市東灘区=の投稿である。なにがこみ上げてきたのだろう。ずっと気になっていたので、あらためて話をうかがった◆自宅が無事だった佐野さんは近隣の人に電話を自由に使ってもらったという。玄関を開け放ち、ガラス片でけがをしないよう板を敷いた。多くの人が、その電話で肉親らと連絡をとった。ようやく相手とつながった途端、その場で泣き崩れた女性もいた◆昨年三月、突然の来訪者があった。それが冒頭の夫婦である。「あのとき電話をお借りして」と二人は礼を述べ、実家に住む佐野さんの父が震災で亡くなったことを悼んだ。そして、長らく身を寄せた岡山県からやっと神戸へ戻ってくることになったと告げた◆夫婦を送り出すと感慨が胸に満ちた。自宅が全壊し、言い知れぬ苦労を重ねただろう二人が願いをかなえた。それを素直に喜びたい気持ちに、震災への恨みが交じった。わが身にも降りかかったリストラ。あの夫婦のように、不慣れな地での生活を強いられた人も多い。「うれしくて悲しくて、涙が」。佐野さんはそう話した◆被災地はきょう、震災十年となる。といっても、なにかが変わるわけではない。佐野さんのように心の振り子は揺れ続ける。ただしこう祈りたい。うれしさの方へ少しずつ大きく振れていきますように。
2005/1/17