阪神・淡路大震災は十七日、発生から丸十年を迎える。十六日、被災地では六千四百三十三人の犠牲者への祈りをささげる集いが各地で開かれた。十年間を振り返り、語り、互いの絆(きずな)を確かめ合う人々の姿もあった。「生きていてよかった」。母親を失い、今は自身が母となった女性が言った。「今度は私が人の役に立ちたい」。父を失い、成長した高校生が遺族代表の大役を果たした。亡き人の思いを受け継ぎ、懸命に歩んだ十年。鎮魂の祈りはどこまでも深く、希望という光が未来への一歩を支える。
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震災遺児らの心のケア拠点「あしなが育英会レインボーハウス」(神戸市東灘区)で開かれた「今は亡き愛する人を偲(しの)び話しあう会」。遺児三人が父や母にあてた手紙や作文を読み、保護者ら約百六十人が遺影に白い菊を手向けた。
神戸市内で母=当時(53)=と二人で暮らしていた岡田幸代さん(26)は、震災の時、高校一年だった。自宅が全壊し、母だけが亡くなった。
兵庫県外の親類宅に身を寄せ、高校を卒業。「介護福祉士になる」という母との約束を果たすため、県内の福祉専門学校へ。その後、老人ホームに就職した。
「私のせいで、お母さんは死んだ」と自分を責めた時期もあった。「生きていることがつらくなった時も」。この日、涙ながらにそう語った。
腕の中には、昨年一月に生まれた長女妃茉莉(ひまり)ちゃんの姿。あやしながら声を詰まらせた。「生きていて本当によかった」。
今、夫と子どもの存在が家族の大切さ、命の重みを教えてくれるという。「お母さんのように愛情いっぱいに妃茉莉を育て、家族三人で力を合わせて頑張ります」。母への手紙をそう締めくくった。
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生きていて本当によかった。私もお母さんのように…
お母さんへ
お母さん、元気ですか。
十年たって、お母さんがいなくなったのがやっと分かりました。今まで何度も夢に出てきては、やっぱりどこかで生きているんだと思っていたから、震災後、お母さんが亡くなったと人に話すのがとても嫌でした。
私は結婚して、ひまりが生まれてから、とても幸せに暮らしています。
心温かいパパと今月一歳になったひまりは、私に家族の大切さ、生きていることの素晴らしさを教えてくれます。
十年前、私のせいで、お母さんは死んだと思い込み、自分も生きていることがつらくなった時もあったけれど、もし自分より子供の方が先に死んでしまうことの方がどれだけ悲しいことなのか、ひまりが生まれて教えられました。
お母さんの代わりのように一月に生まれたひまりの姿を見て、今日はきっとお母さんも天国で喜んでくれていることでしょう。
今、生きていて本当によかった。お母さんは、私が生まれてからの十六年間、一生懸命、私を育ててくれていたのですね。
これからは、私もお母さんのように、愛情いっぱいにひまりを育て、家族三人で力を合わせて頑張ります。いつまでも見守っていてください。
幸代
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ここに「共生のまち」をつくろう
きれいな爪(つめ)の色だった。
やせて肩で息をしていたが、細くて長い指も温かかった。いつものちょっとはにかむような笑顔をみて病院を後にした。
それから半日後、最期の知らせが届いた。六十八歳だった。
あの烈震の日から六年と三カ月がたっていた。自宅が全壊して父を失い、二年後の再建直後に妻が逝(い)き、彼も旅立ちを急いでしまった。
一瞬の揺れからの日々を、彼は濃密に生きた。時間を早送りして何年分も先取りするようだった。そんな時間が、被災地には無数にあった。
大震災十年。ここまでの時間感覚を、ひとくくりで表現するのはむずかしい。被災地の時間は、ここで生きた一人ひとりの時間の集積だからだ。ただ、この十年が通過点に過ぎないことだけは、はっきりといえる。
「街の美しさは、市民の安心をたたえた内面的な美しさでありたい」。論説記者の先輩だった彼が被災後の社説で繰り返した言葉である。
「復興」がまちの復元だけを意味するなら、あるいはもっと楽だったかもしれない。しかし、あの大災害はさらに深く、重く、わたしたちに問いかけた。
経済万能と効率的な都市設計のもろさ、進行していた都市の高齢化、希薄になりつつあったコミュニティー、硬直した国の制度、自治の弱さなどなど。阪神・淡路は「直下型の激震」と「高度な都市圏」の組み合わせによって、都市の皮膚下に隠されていた問題をあぶり出した。
それは阪神・淡路地域にとどまらない。この国が戦後の繁栄の象徴としてきた仕組み、モノ、心のありようまでの変更を迫る衝撃だったからだ。わたしたちは、それを六千人を超える犠牲者の声として聞いた。
しかし、住宅の再建をはじめ、膨大な問題群の答えを出し切れていない。「安心をたたえた国」になってはいない。新潟県中越地震、台風禍は、それを突きつけた。十年を通過点とする理由である。
それでも、この十年は多くの手がかりを生んだ。市民が主体的に地域を支える動きは、最も顕著な例だ。他地域の災害への救援は、行政を含め、素早く始動する。痛みを共有し、支え合う。「震災の思想」と呼べるだろうか。
この思想を、体験の蓄積を、被災地の内外で、もっと深め、広げて、まちの、国の形として具体化していきたい。その到達点に、わたしたちの「復興」があるのだろう。
地震活動期に入った日本列島のみならず、災害は世界で多発傾向にある。二十五年間で百四十五万人がいのちを奪われた。八割は途上国だ。インド洋大津波は、災害と犠牲の構造を教えている。
災害を予防し、被害を食い止めるために世界は知恵と行動を集めなければならない。イラク戦争で世界は分裂したが、災害救援と復興支援は世界をひとつにする力になり得る。日本は、その先頭に立ちたい。わたしたちのまちは、その拠点になりたい。
外からの流入を柔軟に受け入れてきた「ハイカラなまち」だからこそ、すべてのいのちが「共生するまち」になれる。
鎮魂の祈りをこめて、きょうを新たな一歩としよう。(論説委員長・森本章夫)
2005/1/17