十年前、この地で多くの命が失われた。残された者が流した涙と汗。さまざまな人の励まし。それらを受け止めた生き方をしたい。自然災害をなくすことはできないが、被害を減らすことはできる。1・17の朝、新たな誓いを立てよう。
きょう、神戸・三宮や西宮など阪神間の各地で、若者たちが、白いリボンを配りながら募金活動をしているはずだ。
被災地発の「白いリボン運動」。もともと震災の年の暮れに、関西学院大学の学生が、犠牲者追悼や支援への感謝を込めたリボンを作り、配ったのが始まりだ。だれもが参加できる運動として広がったが、〇二年秋、いったん中止される。震災体験がない学生が増え「知らないことを伝えられるのか?」という声があがったためだ。
中止は、被災地全体で記憶が薄れつつある中での象徴的な出来事だった。しかし昨年秋、同大教授らの呼びかけにより、震災を機に広がったNPO(民間非営利組織)を支援する民間募金として再生した。
「あの時、助けられなかった命を、次の災害では助けられる力をもちたい。そのためには普段から支え合い、助け合う社会をつくっておく必要がある。その担い手を市民自身がお金を出して支えよう」
この理念は、兵庫県内だけでなく、大阪や奈良、北海道など各地に浸透しつつある。風化しがちな記憶や体験に新たな意味付けを与え、蘇(よみがえ)らせた意義は大きい。
カタツムリを模した白いリボンには、ゆっくりだが、確実に進む決意が込められている。この運動が、地域を超え、世代を超えて、広がっていくことを願う。
谷間のつらさ分かる
昨年は台風や地震など自然災害が相次ぎ、年末にはインド洋周辺の国々を大津波が襲った。国や災害の種類は違っても、なすすべもなく立ち尽くす被災者の姿は、十年前の私たちと重なる。
とくに十月下旬に新潟県で起きた中越地震は、阪神・淡路と同じ「震度7」。私たちの心も、大きく揺さぶられた。多くの人が、募金に協力し、効果的な支援策を提案し、あるいは手伝いに駆けつけた。
「神戸から来ました」
この一言で、心を開いてくれた被災者も多かったという。新潟県の災害対策本部の会議には、兵庫県チームの席が設けられ、助言や提案が次々と実行に移された。
避難所での健康対策。地域ごとにまとまっての仮設住宅入居。外国人被災者への多言語情報提供。早期の心のケア…
いずれも阪神・淡路では、後手後手になってしまった反省点だ。それが新潟で改善されたとき、心から良かったと思えた。
つらい経験だったが、せめて前向きに受け止めるとすれば、それは教訓を生かし、同じような被害を防ぐことではないか。
災害は一つひとつ様相が違うため、阪神・淡路の教訓がすべて役立つわけではない。しかし、被災した人たちに心を寄せることで、共通の課題も見えてくる。
たとえば、緊急救援と、復興事業が本格化する時期との間に、ある種の「谷間」ができることを、私たちは知っている。
人々の関心は、新しい事件や災害の方に移る。当初は同じような境遇だった被災者の間に、格差が出始める。「取り残されるのでは」という焦りや無力感に襲われる。その苦しい時期を、どう支えていくか。
この十年で、災害発生直後のレスキューや緊急医療については、消防や自衛隊、救援NPOなど体制が整ってきた。
しかし、その後の「谷間」や、延々と続く復興への道のりを支える体制は、まだまだ乏しい。自力復興が基本とはいえ、住まいも、生計の手段も奪われた被災者には、まず立ち直りの手がかりが必要だ。
市民にできることを
気になることがある。直後の緊急救命の重要性が強調されるあまり、災害時の支援は専門チームにしかできない、という見方が生まれつつあることだ。
被災地の生活復興は紆余曲折(うよきょくせつ)があり、長期に及ぶ。その過程で必要なのは、痛みへの共感や自由な発想、自発性など、むしろ市民が得意とするものだ。
神戸に本部を置く海外災害援助市民センター(CODE)の活動が、一つの示唆を与えてくれる。戦禍で荒れたアフガニスタンでは、住民が協同組合をつくり、ブドウ栽培で自活できるよう手助けしている。インド洋大津波でも、現地の非政府組織と連携しながら、コミュニティーの強化や防災教育につながる支援を検討中という。
このような草の根の復興支援や、再出発した白いリボン運動が目指すものは、私たち市民が担う防災・減災の取り組みだ。
震災十年のきょう、その大切さを胸にしっかりと刻み込んでおきたい。
2005/1/17