更地の中に、真新しい家がぽつぽつと立つ。
二十四世帯が住んでいた千歳町一丁目の一角。同じ場所に二世帯が自宅を再建した。その一軒、佳山敏行さん(53)は婦人靴のメーカーを営む。
「仕事は減って、ダブルローンで借金は増えた。きついけど、この仕事しかないんですわ」
震災から二年。靴の受注は芳しくない。
千歳地区は、ケミカルシューズの町・長田に隣接する。大きな工場町の西端に位置し、住民の多くが靴で生計を立てていた。二十四世帯のなかでも、九世帯が何らかの形でケミカルにかかわってきた。
その街を、地震の後に出た火がほぼ焼き尽くした。
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震災の日、佳山さんの自宅を焼いた炎は、数百メートル離れた貸工場もなめ尽くした。独立して十二年になる。ここ数年、業界は斜陽気味だった。それでもなんとか持ちこたえてきたが、震災ですべてが無に帰した。
事業をどう再開するか。とりあえず、簡単なサンプルを作って神戸港から大阪へ出た。東京、名古屋の問屋を回り、健在ぶりをアピールした。
「どうや、いけるか」。二十近いなじみの下請け業者に、片っ端から連絡した。従業員を手当てし、新しい機械を買いそろえた。半年後、自宅近くの仮設工場を借りた。
下請け十数業者に従業員十二人、機械八台。それに家族。メーカー「シューズ・ソアロン」が息を吹き返した。
長田のケミカルシューズ業界は、町全体が一つの工場といわれる。材料加工、裁断、ミシン、のり付け、ネーム張り、仕上げ。細分化された工程に、それぞれ下請けがいる。メーカーの発注を受け、流れ作業のように部材がぐるっと下請けルートを回って、一足の靴ができあがる。
千歳町一丁目と周辺の数ブロックには、そんな業者が集まっていた=表。
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熊野古道で知られる和歌山県中辺路町。加工の下請けをしていた堀内三日雄さん(63)は、神戸から遠く離れた山里に新しい仕事場を設けていた。
震災の年の春、メーカーの工場を借り、機械も半分借り受けての再出発だった。取引が一本のため、千歳地区を離れても大きな支障はない。
自宅兼仕事場を焼失した堀内さんと、その技術を必要とするメーカー。十五年来のつきあいが、危機のときに生きた。
約八十平方メートルの工場の家賃は月二万円。歩合の工賃は少し減ったが、一年を通してきちんと仕事が入ってくる。夜が明けぬうちに起き、半日近い時間を仕事に費やす毎日だ。
「神戸でがんばっている、という話を聞くと、自分が逃げ出したような気になって…」
ときに複雑な心境をもらす。しかし、後戻りはできない。昨秋、農地を買って自宅を建てた。本籍も故郷の愛媛から和歌山へ移した。
くつの町がはぐくんできたきずなを頼りに、ここでも再生への日々があった。
1997/1/16