この年末年始、藤田英子さん(60)はたっぷり休みをとった。震災前は、お正月もほとんど働き通しで、新年をゆっくりと迎えるなんて思いもよらなかった。
千歳町一丁目で、ケミカルシューズの仕事をしていた人は数多い。藤田さんもその一人。いま、神戸市長田区の賃貸マンションから靴のネーム張りの作業所に通う。バイクで五分。朝九時の始業で、十分前に出れば間に合う。
鉄でネームの型をこしらえ、中敷きに金や黒、茶色などの箔(はく)を焼き付けていく。二枚で一足分。残業するほど仕事はなく、午後五時ごろには終わる。
地震の前は、自宅で内職を請け負っていた。作業場は一階の六畳間。百七十万円かけて機械をそろえた。何度も機械に指をはさみ、左手の人さし指には縫い合わせた跡がある。
「一足六円で出来高払い。一日中、家にこもって朝から晩まで。よう働いたもんです」
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「ガシャン…ガシャン…」「カシャ・カシャ・カシャ」
千歳地区を歩くと、プレハブや、駐車場に屋根を張った仮設作業場から、裁断やミシンの音が響いてくる。
ケミカルシューズ業界の主力は、中高年の女性だ。小さなスペースと簡単な機械があれば、自宅でも仕事ができる。「熟練さん」。そう呼ばれるネットワークが、業界を支えてきた。
常盤町二丁目でミシン場を営む今井紀子さんはいう。「ケミカルは好不況の波がある業界。一貫工場なんてとても持てない。熟練さんなら設備投資はゼロ。逆に人脈があれば机一つで会社が興せる」
腕のいいミシン工なら、多い月で四十万円を稼ぎ出す。一方、決められた納期に仕上げることで、納品管理を担っている面もある。
一時的に震災で崩壊したこのネットワークも、二年を経てかなり戻ってきた。だが、熟練さんの口は一様に重たい。
「朝はゆっくり。午後三時には終わってしまう」「その日に注文が入る自転車操業」
プレハブの自宅兼仕事場を建てたミシン工(53)は「仮設に入ったため通勤できず廃業し、生活保護を受けている友人もいる。いい腕してるのに、もったいなくて」と漏らした。
内職とはいえ、家計を支える大黒柱だった。街を焼き尽くした震災は、それぞれの人生設計も狂わせた。
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藤田さんの夫、泰嗣さん(69)はタクシー運転手。人を雇って靴底を扱う工場を持ったこともあったが、廃業してもう二十年になる。
「お父さんもよう働いてきた。七十歳になればタクシーやめてよ」。自分の内職で二人なんとかやっていける。震災前、そんなプランを描き、夫に声を掛けてきた。
「一瞬にして何もかもがパー。明日のことは分からんと思い知った。半ばやけですわ」。英子さんを引き取って泰嗣さんがいう。「死ぬまでタクシーに乗らなあかんな」
先のことと思っていた老いが、身近に迫っている。まだまだ現役の英子さんだが、最近、そう感じ始めている。
1997/1/18