お正月、金沢龍二君(14)は明君=仮名=と再会した。
地震の後、東北に引っ越した明君が神戸に戻るのは初めてだった。新しいJR新長田駅や、様子が変わった商店街を案内した。半日が「あっという間に過ぎた」と龍二君は感じた。
大阪にいる信川和也君からは、初めて年賀状が届いた。しかし、武君=仮名=がどこにいるか、龍二君は知らなかった。
地震が街を襲ったとき、四人は千歳小学校の六年生だった。四人とも大池町一丁目に住んでいた。その年の四月、そろって太田中学校に入学するはずだったが、今、同中に通っているのは龍二君だけだ。
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龍二君は震災後、奈良にいた大学生の兄の下宿へ避難した。奈良は「何の不自由もなく、地震を受けていない感じがした」。千歳での遊びは「昔から人気のある野球とかが多かった」が、バスケットがはやっていた。「揺れ、どれくらいすごかった?」「友だちは生きてた?」と質問を受けた。
卒業式の前に、神戸の祖母宅へ移った。「活動してる大人の表情が厳しいような気がした」と龍二君。クラスに戻ると、友だちが「めっちゃ遠く」に避難していたことに驚いた。「みんな戻ってきとうかな」と気にしていた同級生は、半分くらいに減っていた。
祖母宅は大橋中の校区になる。しかし、「友だちがいるから太田中へ行きたい」と言った。母の明美さん(45)は「太田中やなかったらイヤや、という言い方だった」と振り返る。
一九九六年三月、神戸市長田区に再建した自宅に落ち着いた。通学に四十分かかる。「しんどくて、一度だけ学校をかえようと思ったことがあったような気がする」が、卒業まで通うつもりだ。
明君と会うことはできなかった。「思い出したくない、と言っていた。私ら以上に大きなショックを受けているようだ」と、仕事の関係で仮設住宅に住む父。正月明け、明君は父と共に母の実家へ向かった。「一年に二回しか会えず、さみしい」と父はいう。
和也君は、母の実家に兄弟三人で避難した後、大阪に移った。「遊ぶところがない、野球できへん、と言っていた」と母はいう。父(48)は「年齢がローンを組む支障にならないか」と不安を感じながら、区画整理が決まれば、子供らのためにも、元の所に家を建てたいと思う。
武君の家は昨春、避難先の近くで家を建てた。母(47)から「ずっとここに暮らすんだから」と言われ、転校を決断した。
震災で離れてしまった友だち同士、連絡先が分からないことも多い。龍二君の母明美さんは「名簿もない。落ち着き先のめどがない人もいるから、親同士も気を使って、移転先をなかなか話せない」という。
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高齢化が進み、千歳小の児童数は毎年、減り続けていた。震災のあった九四年度は三百七十八人。次の年は百二十六人も減り、今年度もさらに二十七人減った。
昨秋、新入生の受け入れを前に学校とPTAが話し合う場で小さな異変があった。地域に詳しい住民の知らない家庭があったのだ。一時住まいにしても、「これまではあまりないこと」(高橋利之校長)だった。
街は、いや応なく変わり始めている。
1997/1/20