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崩れた岩屋交差点の陸橋。国道2号と同43号の分岐点で、交通に大きな影響をもたらした=1995年1月18日、神戸市灘区
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崩れた岩屋交差点の陸橋。国道2号と同43号の分岐点で、交通に大きな影響をもたらした=1995年1月18日、神戸市灘区
体育館は避難生活者で埋め尽くされた=1995年3月6日、神戸市長田区
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体育館は避難生活者で埋め尽くされた=1995年3月6日、神戸市長田区
震災発生時刻で止まったままの時計=1995年4月4日、西宮市田中町、西宮中央商店街
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震災発生時刻で止まったままの時計=1995年4月4日、西宮市田中町、西宮中央商店街
シェイクアウトの訓練で買い物かごをかぶる客や店員ら=西宮市小松北町1、コープ西宮東
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シェイクアウトの訓練で買い物かごをかぶる客や店員ら=西宮市小松北町1、コープ西宮東

 ▼あさきゆめみしさん(三田市、50代)

 当時家は半壊。ライフラインが使えなくて1月なので、すごく寒かったです。

 ▼わたまささん(神戸市兵庫区、50代)

 私自身も被災者の一人としていろんな避難所を転々としたことを今でも鮮明に覚えています。震災を知らない若者たちには、語り伝えていくことが私たち生かされている者の使命だと思っています。

 ▼すずさん(神戸市西区、40代)

 家屋の倒壊はありませんでしたが、1週間水が出ず、当時自治会役員をしていた母が「給水車はいつになったら来るのか」と責められていました。切羽詰まった人というのは、責任転嫁をして誰かのせいにしないと自分を保てないのでしょう。わが家だって水がなく、その上責められて、本当につらい日々でした。

 27年たった今も、あの時の悔しさやつらさは忘れられません。同時に、蛇口をひねると当たり前のように出てくる水がありがたく、大切に使わなければならないと思うようになりました。

 ▼T・Aさん(神戸市灘区、50代)

 あの日の朝、頭が痛いので目を開けたが、何も見えない。頭上のテレビが顔を覆うように落ちていた。

 家は破片が散乱し、足の踏み場がない。オカンと妹に「危ないから靴下2枚履きや」と言った。直後、ものすごい地鳴りが聞こえ、また家がかき回された。

 コンクリートの地面が液体のように波打っていた。車が波にあわせ隣の車へ何度もぶち当たっていた。2階建ての家がぺしゃんこになり、土煙がもうもうとたっていた。

 揺れがおさまった。ごう音がピタリとやみ、今度は全く音もなく、動くもののない不気味な世界があらわれた。ようやく気づいた。

 「地震や」

 ▼よんよんさん(神戸市垂水区、60代)

 33歳最後の日で、西宮市上甲子園に住んでいましたが、町ごと全滅。幸いにもわが家は倒壊しませんでした。理不尽に不条理に奪われた命や財産を目の前にして、ライフラインが止まったことなどさまつなことでしかなかったです。

 50代を過ぎると、中学高校の同窓会が開かれるようになりました。家が全壊した人、地震後に母親が買い物依存性になった人など、いろんな話を聞きます。同窓会に行かないと行方不明者リストに入れられちゃいますし、いつ何があるか分からないから、会えるときに会うようになりました。

 ▼藤本正和さん(神戸市垂水区、71歳)

 あの日は前触れもなく「ゴゴゴゴズドン」と振動があった。寝室の窓から当時建設中の明石海峡大橋の橋桁塔の光が見えた。

 1時間後、バイクで勤務先のJR神戸駅に向かったが、国道2号の垂水駅を過ぎたところでガス漏れ多発で通行禁止に。迂回路を進み到着したが、事務所の私の椅子には、掛け時計があの時間を指したまま落ちていた。

 大阪の営業本部からの帰り、崩れた国道43号岩屋高架橋(神戸市灘区)や、長田の街の黒煙と火の海を見て、心臓が止まりそうだった。

 ▼福野三喜雄さん(神戸市北区、89歳)

 北区で被災し、家財は倒れ破壊されましたが、家屋は持ちこたえました。当時は携帯電話の販売店で店長をしており、東灘区の仮店舗は数カ月後に再開しました。来客の切実な言葉に心が痛み、胸が締め付けられました。

 「家の下敷きになって死んだ娘が持っていたポケットベルです」

 「家が全壊し妻も子も亡くなった。携帯電話だけが親戚や友人と連絡が取れ、生きる望みです」

 ▼お味噌汁さん

 当時2歳だったので記憶はおぼろげです。隣に寝ていた母の足の上にスピーカーが落ちてきたこと。私の枕元のテレビが台からずれていて、落ちていたら私も危なかっただろうこと。まだ薄暗い寝室で両親が焦った様子であったことは覚えています。

 ▼1・17さん(神戸市灘区、50代)

 テレビでもラジオでも放送されていない恐怖もありました。奪い合いや火事場泥棒、暴行、差別。地震直後は、荒れた無法地帯になっていました。

 スタートをきろうと新しい家を建築会社に依頼し、ある程度の金額を渡すと更地に資材が少し運ばれた。新しい家に希望を抱き前向きな気持ちになっただろう。しかし、待てど暮らせど建設が進まない。電話をかけると、すでに使われていない番号だった。詐欺だった。

 ▼橋さん(芦屋市、30代)

 高齢者福祉の仕事をしています。毎月恒例の行事に珍しく来られなかった方がいらっしゃったのでどうしたのかと思っていたところ、ご友人の方から「17日は息子さんの月命日やねん。震災で亡くなってな」とお聞きしました。

 被災された方にとって震災は1月17日だけでなく、日々の暮らしの中にずっとあるのだと痛感しました。

 ▼まあくんさん(神戸市東灘区、40代)

 布団の下から突き上げられる衝撃で起床。神戸市兵庫区の自宅は半壊。幸い家族にけがはなかった。新長田に住む祖母に電話が繋がらないので、自転車で安否確認に向かう。途中、長田神社付近で煙に巻かれ、目の前が見えなくなり死にそうになりながら、何とか火事場を逃れる。祖母の家は全壊だったが、幸い祖母と叔父は無事だった。

 私は高校3年生で、次の日に就職内定している会社に訪問する予定だったが、社屋が全壊し、内定は取り消しになった。

 ▼ブルートウさん(大阪府豊中市、60代)

 被災しましたが、幸い身体は無事でした。1995年は「インターネット元年」ですが、震災発生時点では普及しておらず、神戸市東灘区の避難所のボランティアの方とは「パソコン通信」という手段で連絡を取り合っていました。

 ただ、コミュニケーションは円滑に進まず、結局こちらからの支援の申し出は受け入れられませんでした。現在では認められないでしょうが、アポ無しで(支援に)行けばよかったと思います。

 ▼ナタリーさん(西宮市、40代)

 ちょうど高校入試の時期で、まだ電車が動いていない中、神戸市内から少し遠方の高校の出願書類を先生が提出してくれました。どうやって学校にたどり着いたのか、今考えると大変に苦労してくれたんだと感謝しています。

 ▼うさこさん(尼崎市、40代) 大人に成長させてくれた

 尼崎市で成人式を迎えたばかりでした。賃貸マンションは外壁が落ち、家にいても外が見える状態になりました。私が寝ていた布団にテレビが落ちてきたり、冷蔵庫が倒れ、棚のガラスや食器も割れたりしましたが、家族は無事でした。一昨日着た振り袖はハンガーにかけたまま落ちませんでした。それを見て「私がしっかりしないと」と奮起したことを思い出します。今でも愛着のある土地に住んでいます。

 通っていた大学に連絡もせず、2カ月ほどしてからクラスメートから連絡があり「よかった無事で!」とものすごく喜んでくれました。震災には遭いたくないですが、あの経験が自分を大人に成長させてくれたと思います。

 ▼やっぱり神戸が大好きさん(西宮市、50代)

 あの日の朝。地鳴りのような音がして下からドンと突き上げられ、洗濯機の中にいるようでした。増築した私の部屋は本体の家から離れて、道路に崩れ落ちていました。頭上には近くにあるはずがない天井。幸い家族はかすり傷程度で無事でした。

 避難所の体育館は夕方には横になれないほどの人でいっぱいでした。教室は遺体安置所になり、畳などに寝かされて毛布を被せたご遺体が次々と運ばれて来ました。暗闇の体育館に響くのは、ヘリコプターと余震の地鳴りの音。余震の揺れに震えながら、明るくなるのを待ちました。

 大阪の職場は祖母宅から通い、週末は神戸で片付けの日々。日常と何らかわりのない大阪の景色に腹立たしさを覚えました。週末が終わり、大阪に行く駅のホームに立っていた時、私の帰る場所は神戸やねん、ここに帰るんやと心に誓いました。

 住宅の再建は、60歳を過ぎた父では住宅ローンが組めず、母が働いていたので30年ローンで家を再建しました。80歳を過ぎた今もローンが残っています。腰が曲がり足も痛い母が一生懸命働いている姿は、あの地震さえなければのんびりとした老後が過ごせているのにと歯がゆく感じます。

 神戸は頑張ってるよ。やっぱり私がいるのは、神戸しかないと改めて確信しました。やっぱり神戸が好きです。

 ▼にゃおん。さん(伊丹市、40代)

 幼少期は浜松市に住み、防災教育をみっちり詰め込まれていました。

 あの日はJR西宮駅近くで被災しました。地響きと揺れで目が覚め、寝ていたこたつの下に潜りこみました。揺れが止まって部屋を見るとぐちゃぐちゃ。寝室に置いていた厚底スニーカーには軍手と小銭を入れていました。ドアや窓が開かず、大声で助けを求めて脱出することができ、その後西宮署で避難させてもらいました。静岡でいざというときの知識と訓練が身についていたことで、冷静に行動できました。防災食も家にあり、しのぐことができました。

 若い人へ言いたいことは、「天災は忘れたころにやってくる。備えあればうれいなし」。自分自身の命は自分で守る。知識は自分の命を、他者の命を守ります。

 ▼神戸市東灘区、50代女性

 当時は防災用品を常備しておらず、大変でした。便利だと思うのが携帯トイレです。凝固剤とビニール袋があれば利用できます。避難所では、水道が復旧していないのに詰まらせることがありました。消毒液は欠かせません。

(まとめ・久保田麻依子)

 ◇随時掲載します。

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