今度の道路は「絶対大丈夫」。
阪神・淡路大震災から一年八カ月後の一九九六年九月末、阪神高速神戸線の復旧工事が完了した。その時、阪神高速道路公団職員の放った言葉が、萬(よろず)みち子さん(79)の耳にこびりついている。
震災前、公団が誇っていた「世界一の耐震基準」とだぶって聞こえた。倒壊の犠牲者十六人のうちの一人、長男英治さん=当時(51)=が信じた言葉でもあった。
「日本の技術は世界一なんや。学者が絶対大丈夫と言うとる」
九四年一月十七日、米国ロサンゼルス近郊で起きた地震。そこで高速道路が倒れたのをテレビで見ていたときだ。萬さんが「もしあんたが下敷きになって死んだらどうすればいい」と問うと、英治さんは「何で倒れたか、は徹底的に調べてほしい」と答えた。その地震の一年後、大震災は起きた。
「人間が“絶対”なんて言葉を使っていいものでしょうか。過ちを改善していく生き物でしょう」と萬さんは静かに語る。
震災後、毎日つける日記は、七年半余りで大学ノート十二冊になった。直後は病院やタクシーの電話番号、死亡診断書や労災申請に必要な事務事項が走り書きされている。収骨の日は「戦場のような火葬場」とある。
が、日記には英治さんの命日や裁判の節目の記述はない。「感情を込めて書いたら身がもたないから」。息子を亡くして一人暮らしに。裁判は一人だけの闘いだ。長い闘いでもある。
倒れないはずの道路がなぜ倒壊したのか。「息子が納得できる説明を」と提訴に踏み切った。毎回、傍聴しメモを取るが、「想定外の地震で落ち度はない」との公団の主張は法廷でも変わりはなかった。時折、被告側の席から刺すような視線を感じた。
「くたびれはてた」。淡々とした日記の文章の中で、唯一の感情的な表現だ。「一人では相手が大きすぎる」と気がめいることもある。
一方、「提訴してくれてありがとう」と耳打ちしてくれた公団の若い職員もいた。公団という組織が変わるきっかけになるのだ、と。
「英治が生きていたらやることを私がやっている」。その思いだけは変わらない。
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地震による高速道路倒壊で息子を失った萬さんが、公団を相手に提訴して五年八カ月余り。裁判は一日、結審した。公共構造物の安全性に疑問をぶつける原告に対し、公団は「想定外の地震」と免責を主張してきた。「息子の死を説明してほしい」との萬さんの問いかけに、答えは出されたのだろうか。
2002/10/2