徳島市で今月二十三日、吉野川可動堰(よしのがわかどうぜき)建設の是非をめぐる住民投票が実施される。
直接請求、市会議員選挙、市会会派の交渉を経てようやく実施にこぎつけた。公共事業について、住民の意思を問う全国初のケースとして注目を集める。
結果に法的な拘束力はない。だが、投票を前に「第十堰住民投票の会」の代表世話人、姫野雅義氏が言う。「結果、地元が建設を望んでいないことが明らかになれば、国が建設を推進する根拠がなくなる」。住民の意思を地域の重要案件に直接反映させる手段として、各地で広がりを見せる住民投票運動。法制化を目指す動きも出てきた。
一方、中山正暉建設相は「可動堰は流域住民の生命にかかわる問題だ」として投票結果に関係なく、事業推進の立場を強調する。
「市民は、自ら投じて出した答えに責任が取れるのか。自然災害で生命や財産を失っても、納得できるのか」。その言葉は「責任は、官でないと担えない」とも聞こえた。
市民の立場から、責任の持てる答えをどう導き出すのか。被災地で、一つの試みがあった。
地震半年後の九五年七月に発足した「被災者復興支援会議」。医療、福祉など十二分野の専門家で構成する知事直属の第三者機関だ。座長は、小西康生・神戸大教授。被災者から直接意見を聞く「移動いどばた会議」などを各地で開き、現場の声を吸い上げた。県の課長級職員から成るプロジェクトチームと協議を重ねて提案をまとめ、施策へとつなげていった。
「被災者の声が具体的に施策に反映される。そういう住民参加の実感が、支援会議の重要な機能だった」と小西座長。例えば、ふれあいセンターの設置基準の引き下げや、仮設住宅でのひさし・外灯の設置。現場の声をもとに実現させたものは、数多い。
だが、被災自治体が次第に機能回復へと向かうにつれ、両者のバランスが崩れていく。亀裂が走ったのは、九七年一月だった。復興住宅の第三次一元募集について、県は、応募条件の緩和など、最終調整を終えた同会議の提案を待たず、一方的に発表した。会議は紛糾。「私たちの存在をどう位置付けているのか」と、小西座長ら数人が辞任を申し出るまでに発展した。
会議を無視した理由は何だったのか。県職員は「急きょ、庁内でそう決まった。すまない」と繰り返すだけだったという。真意は今も分からないが、震災直後の高ぶりが冷め、平時に戻ると、また元の「お上体質」になってしまったのか。
その後、同会議は解散への道をたどる。その歩みは、新たな「公共」を生み出す可能性を示し、一方で、体質を変える難しさ、限界を浮き彫りにした。
被災者と行政の間に立ち、四十数カ月の活動を続けた支援会議は、行政に説明責任と情報開示を求めると同時に、市民に向けた最終提案をまとめた。
「公共性を行政とともに担い、責任も義務も併せ持つことによって市民としての力が高まっていく」
同会議は昨年、「支援会議2」に、その機能が引き継がれた。まちづくり協議会の事務局長ら、より市民色の強い顔ぶれが集まった。
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震災を機に生まれた被災者復興支援会議は、昨年三月まで活動を続けた。計十三回の提案で、こころのケアセンターや生活支援アドバイザーの設置など、新たな施策の実現を働きかけた。職員による原案はなく「筋書きのない会議」「活動する会議」と呼ばれた。他の自治体に同様の組織は少なく、東京都は震災復興マニュアルで、被災後、支援会議をならった機関の設置を決めている。
2000/1/8