第2次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は神戸・阪神間に進駐し、西日本最大級の兵たん拠点「神戸基地(Kobe Base)」を置いた。港湾施設は接収され、焼け残った旧居留地の近代建築は司令部になった。市街地に広大な米軍キャンプができ、土地の返還まで10年以上かかった。専門家は「(占領地は)戦後復興から取り残された」と指摘している。
神戸への進駐は終戦直後の1945年9月に始まり、和歌山に上陸した1万1千人の米軍が2週間かけて入った。
戦前から物流拠点として発展した神戸は、占領軍が各部隊に送る物資の補給、管理を担った。46年には広島・呉や名古屋の基地が閉鎖され、神戸に機能を集約した。
占領軍は土地と建物の接収を進め、兵庫県内で対象になった建物467件は東京都に次ぐ多さ。土地は神戸を中心に200万平方メートルを超えた。
神戸の占領や戦災復興を研究する大阪公立大の村上しほり特任准教授(38)=神戸市文書館公文書専門職=によると、接収は「業務機能の設置」「生活拠点の設営」「占領軍家族向け居住地区の設営」の3段階に分類されるという。
司令部は当初、現・神戸税関に置かれたが、税関の業務再開のため46年には旧居留地の近代建築物に移った。神港ビルをはじめ、焼け残った鉄筋コンクリート造りの建物はほとんどが接収された。突堤や民間の倉庫も対象になり、大丸百貨店はPX(米軍の売店)になった。
■住民ら立ち退き強いられ
45年末からは、兵士の生活拠点として今の神戸阪急の南東約31万5千平方メートルが「イースト・キャンプ」になり、焼け跡のバラックで生活していた住民は立ち退きを強いられた。JR神戸駅から新開地まで約10万3千平方メートルは黒人兵が駐留する「キャンプ・カーバー」と呼ばれ、旧聚楽館は米軍用の劇場になった。
ほかにも神戸市須磨区の武庫離宮跡(現・須磨離宮公園)は射撃場として整備され、西宮市の甲子園球場は兵舎となり、米兵向けの体育学校が置かれた。
高級将校やその家族は、垂水のジェームス山の洋館のほか、東灘・御影、芦屋、西宮の邸宅やホテルを接収して住んだ。100戸以上が対象になったが、空襲被害で物件は足らず、旧神戸経済大(神戸大の前身)があった神戸市灘区の六甲台に「六甲ハイツ」として225戸が新築された。
52年の講和条約発効と前後して、接収物件は順次、日本に返還された。キャンプ用地の周辺は既に復興事業が進んでいたことから、村上さんは「復興に10年の遅れが出た。接収前後で場所の性格がまったく変わってしまった」と分析する。
イースト・キャンプの区域は戦前、貿易商の商館があり、市内有数の「小野中道商店街」を中心に商業地として栄えていた。返還後は神戸国際会館や神戸商工貿易センタービルができたが、ほぼオフィス街となり、戦前のにぎわいは失われた。
六甲ハイツは神戸大六甲台第2キャンパスになった。返還の際、米軍の建物やインフラ施設はすべて撤去された。キャンプ跡地を含め、占領時の痕跡は今、まったく見られない。
(若林幹夫)