商店街に面した建設直後の高橋病院(奥)=1970年ごろ、神戸市長田区(同病院提供)
商店街に面した建設直後の高橋病院(奥)=1970年ごろ、神戸市長田区(同病院提供)

 阪神・淡路大震災の日、神戸市長田区にあった高橋病院の入院患者を避難誘導したのは地域住民だった。病院は、八百屋や食堂などが並ぶ「鷹取商店街」に面していた。駅に近い周辺地域には、小さな木造住宅がひしめいていた。

 病院周辺まで延焼したとみられる若松町10丁目を火元とする大火は、神戸市で震災時に発生した焼損延べ床面積が5千平方メートル以上の火災で最多の死者73人を数えた。患者の避難を手伝った住民の家も、その後多くが焼けた。震災で全焼した建物は、神戸市内で6965棟あるが、長田区は4759棟と約7割を占めた。

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 「地域の助けがなければ、あの避難は不可能でした」と、院長の高橋玲比古(あきひこ)(69)は言う。だが、高橋家と長田のつながりは当時、それほど強固なわけではなかった。玲比古の父、諄(まこと)が、1963年にクリニックを開いて以来、30年余りしかたっていなかったからだ。