父親が抑留死した馬渡節雄さん。「年を取るにつれて、語り伝えたいと思うようになった」=神戸市灘区篠原北町4
父親が抑留死した馬渡節雄さん。「年を取るにつれて、語り伝えたいと思うようになった」=神戸市灘区篠原北町4

 戦争が終わっても、父親は帰ってこなかった。旧ソ連の抑留先での死亡公報が届いたのは、1948年12月。当時5歳の馬渡節雄さん(81)=神戸市灘区=は「泣き崩れる母親の姿をはっきり覚えている」。70歳を過ぎ、ようやく亡くなった地を訪れた。「一度だけでも『お父ちゃん』と呼んでみたかった」。悲しみは今もおりのように、胸の内に沈んでいる。(田中真治)

 馬渡さんは、鹿児島県東串良町の農家に生まれた。近くには、特攻隊の出撃基地があった。父親の太平次さんは44年の夏、36歳で旧満州(中国東北部)に出征。記憶にあるのは「着物姿で抱っこしてもろうて、子牛に草をあげるのを見守ってくれていた、ほんの数秒」だけだという。