沙羅双樹の大樹がある神戸市北区有馬町の念仏寺
沙羅双樹の大樹がある神戸市北区有馬町の念仏寺

 有馬温泉の特徴の一つに、狭い町の中に7軒の寺院があることが挙げられます。かつて湯治を目的に多くの人が訪れましたが、亡くなる人も少なくなく、その人々を弔うために各宗派の寺が置かれたのです。

 初夏に沙羅の花で知られる念仏寺は1538年の創建と伝えられ、1712年に現在地へ移りました。この地は豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷跡とも言われています。

 秀吉は晩年、自らの病を癒すために湯山御殿を築きましたが、地震で倒壊しました。その後、片桐且元(かつもと)に有馬温泉街の復興と湯山御殿の再建を命じました。しかし、秀吉が再び有馬を訪れることはありませんでした。

 且元は1614年に有馬温泉の管理を幕府の支配体制に移し、湯山奉行や代官が配置され、温泉管理は徳川体制となりましたが、4代将軍・徳川家綱(在職1651~80年)の時代には、町人や湯屋を中心とした運営に変わっていきました。そして宿も増えたと考えられます。この頃から「有馬十二坊」という言葉が登場します。

 鎌倉時代に仁西(にんさい)上人が有馬温泉を再興した際、十二の宿坊を造ったという逸話がありますが、それは「違う」と思います。

 ちなみに、江戸時代の儒学者、林羅山が記した「摂州有馬温湯記」(1621年)には、仁西上人が有馬を再興したことや、浴場を管理する女性(湯女(ゆな))についての記録があります。

 医者で歴史家の黒川道祐(どうゆう)が刊行した「有馬地誌」(64年)は、仁西上人が平家の残党を湯守として呼び寄せ、その末裔が「十二坊」であると説明し、「一の湯」を守る10家、「二の湯」を守る10家、各家に湯女2人を置くといった具体的な運営体制を記しています。

 平子政長による「有馬私雨」(72年)には大湯女20人、小湯女20人という記述があり、狂歌作者の生白堂行風(せいはくどうぎょうふう)の「有馬名所鑑」(78年)にも一の湯と二の湯に十坊ずつ-と明記されています。

 さらに、85年に書かれた「有馬山温泉小鑑」によると、十二坊の宿坊の配置や湯女の役割分担が定められ、この時に初めて十二坊という呼称が使われるようになりました。

 林羅山が有馬に来た頃は、入浴時間の制限や灯明銭の徴収を寺院が行っていましたが、64年ごろに有馬温泉が民間運営に移行してから湯治客が増加し、宿坊も数を増やしたと考えられます。

 なお、念仏寺には宿坊の過去帳がありますが、年代が分かる最も古い記録は1725年に亡くなった人物のものです。その前に亡くなった人物は年代は記されていませんが、8人の名前が記載されています。おそらく、有馬の宿が民間経営になった頃から記入が続いていると推測されます。

 古墳時代に舒明天皇が来訪して以来、有馬温泉は権力者の保護を受けてきましたが、江戸時代に民間経営となり、江戸・元禄期には伊勢神宮へのおかげ参りと重なって全国から人々が訪れました。

 その結果、有馬は日本を代表する温泉地として最盛期を迎えたのです。(有馬温泉観光協会)