旧有馬街道に残る道標。片桐且元が有馬の町の都市計画を定め、道の補修などをしたと伝わる=神戸市北区
旧有馬街道に残る道標。片桐且元が有馬の町の都市計画を定め、道の補修などをしたと伝わる=神戸市北区

 豊臣から徳川の時代への移り変わりの中で、有馬温泉について調べると、片桐且元(かつもと)の関わりが非常に大きいことが分かります。

 且元は、賤ケ岳(しずがたけ)の戦い(1583年)で功を立て、大坂城の築城や改修にも深く関わりました。

 慶長伏見地震(96年)の後、有馬復興の現地責任者に任命されます。崩壊した「湯山御殿」の再建を行い、現在にも続く有馬の町の都市計画(町割)を定めました。

 家屋配置では、道路の幅を確保し、宿坊や茶屋は湯山御殿に続く道沿いに置き、行き交う人々の往来を妨げないように配慮されました。

 さらに、「湯場番役」を定め、昼夜を問わず湯口の清浄を保ち、無断で押し入り乱暴を働く者を取り締まりました。

 湯銭(入浴料)は裕福な町民や武士の湯治に適した一人一匁(いちもんめ)と定め、庶民には宿湯(宿坊の共同浴場)で安価に入浴できる制度も確立されました。

 また、湯女(ゆな)の管理規定も整備され、湯屋ごとに湯女の人数制限を設け、過剰な雇用を禁じました。湯女による過度な色事や賭博行為も禁止され、湯銭制度と連携して、湯女の接待も管理下に置き、無秩序な私営湯屋の営業を抑制しました。湯番や町役人を通じて行状を監視しました。

 有馬街道や、有馬から六甲山・大坂へ至る道の補修・橋梁整備も行いました。このように、且元は豊臣秀吉が目指した「温泉リゾート地」の整備政策として、歓楽と秩序のバランスを取り、湯女を有馬の湯治文化の担い手として位置付けました。

 徳川政権期に入って以降、且元は家康から「豊臣家の家老・外交折衝役」に任じられ、有馬は豊臣直轄地として片桐家が引き続き湯治場の整備、宿坊、温泉街の管理を行いました。

 しかし、豊臣方の外交交渉の最前線に立つ中で、豊臣家内部の対立と徳川の板挟みに遭い、1614年には有馬の管理も事実上放棄し、徳川側に出奔します。そして翌15年、大坂夏の陣の後に亡くなりました。

 且元は、秀吉期には湯治場整備の総責任者、徳川期には豊臣家臣として有馬の実務を継続管理し、江戸初期以降の有馬の繁栄の基礎を築いた実務官僚でした。

 15年以降、徳川幕府は有馬を幕府直轄地とし、「湯山奉行」や「代官」を置いて管理し、制度も引き継がれました。そして将軍家の御用湯治場として格式が高められ、有馬温泉は「日本三名湯」の一つとして江戸時代を通じて繁栄し続けたのです。(有馬温泉観光協会)