戦没者慰霊碑と田村幸男さん=三木市緑が丘町中1
戦没者慰霊碑と田村幸男さん=三木市緑が丘町中1

 三木市緑が丘町中1にある戦没者慰霊碑は1987(昭和62)年、各地からニュータウンに移り住んだ戦没者遺族らが資金を出し合い、市有地に建立された。まつられているのは、太平洋戦争で犠牲になった68人。だが、遺族の高齢化などが進み、85歳の田村幸男さんが管理を担う。田村さんは「戦争の悲惨さと平和の大切さを伝え続けるため、永続的な管理には行政の力が必要」と訴える。(小西隆久)

■遺骨さえ帰らなかった戦争、伝えるためにも

 田村さんの生家は出石町(現豊岡市)で、3歳のとき父の好太郎さんが出征。好太郎さんはフィリピン・ミンダナオ島で行方が分からなくなり、1945(昭和20)年3月、戦死通知が届く。遺骨箱には「父の名前が書き込まれた、かまぼこ板のようなものが入っていただけ」。母のつたゑさんが「こんなの遺骨じゃない」と泣き崩れる姿が今も記憶にある。

 高校卒業後、田村さんは神戸税関職員となり神戸へ。72(昭和47)年、まち開きしたばかりの三木市緑が丘町へつたゑさんを伴って移り住んだ。父の死後、復員した軍人たちに父の最期を尋ねて回っていたつたゑさんは、緑が丘町地区の遺族会結成にも携わった。

 故郷を離れ、ニュータウンに暮らす遺族たちは「近くで家族を思えるよう、慰霊碑を立てたい」と募金し、87年に完成。遺族会副会長として、建立に奔走したつたゑさんは完成した慰霊碑を見ることなく、その4年前に亡くなった。建立された場所は小高い丘の公園のそばで「こんなに静かでよい場所にできたことを母も喜んでいると思う」と目を細める。

 退職後、田村さんも遺族会の活動に携わるようになったが、結成時68人いた会員は14人に減少。気が付けば田村さんが最年少になっていた。慰霊碑の周りには夏になれば雑草が伸び、秋には落ち葉が20センチほど積もる。毎年、11月の追悼式前には会員たちで掃除していたが、今では動けるのは田村さん夫婦だけだ。

 戦死した父の記憶は残っていないが、父がいない家庭は「明かりが消えたよう、というのはこういうことかと思うほどだった」。「戦争という間違った道を選んだ結果、多くの人が命を落とし、家族を亡くした。こんな思いを二度とさせてはいけない」との思いが田村さんの背を押す。

 戦後80年。「過去の歴史をもっと知らなければ、また間違った道を選んでしまう。そうならないためにも終戦の日に、子どもたちが手を合わせて平和を誓える場所が必要」と、慰霊碑保存の必要性を訴える。