カメラを携えて1970年大阪万博の会場を訪れる山谷佳之氏(本人提供)
カメラを携えて1970年大阪万博の会場を訪れる山谷佳之氏(本人提供)

 関西、大阪(伊丹)、神戸の3空港を運営する関西エアポート(大阪府泉佐野市)。2025年大阪・関西万博に向けて関空では23年12月5日、新国際線出国エリアが開業し、インバウンド(訪日客)らでにぎわった。山谷佳之社長(67)は、20年に始まった新型コロナウイルス禍による旅客の激減から回復が進みつつある様子を、終始晴れやかな表情で見守っていた。

    ◇

 年末年始や中国の春節(旧正月)など多客期には、うまく運営できているか、お客さんは楽しんでいるか、たびたび見に行っています。プラザ(待ち合いスペース)でくつろぐ方も多く、今のところはうまくサービスを提供できていると思います。

 万博の成功のためにも、「ファーストパビリオン」にふさわしい空港をつくり上げないといけません。空港は玄関口。万博の一当事者として、「第1ターミナル」で進めるリノベーション(大規模改修)の主要部分を完成させ、いい状況で開幕を迎えたいですね。今はそのことに集中しています。

 1956年、大阪府吹田市生まれ。70年大阪万博にはカメラを携え30回以上通った。衝撃は大きく、当時の記憶はその後、経営者として手がけた事業の着想にもつながった。

 小学3年の3学期に同じ市内の千里ニュータウンに引っ越しました。高台の2階建て。僕の部屋から万博の会場が見渡せました。道路や鉄道、会場の工事が目の前でどんどん進み、次第に建物が建っていく。工事が終わると照明がともされ、太陽の塔の上からサーチライトが出るとか、ものすごくきらびやかな世界が広がるわけです。

 万博の開幕は中2に上がる直前。とにかくすぐに行きたくて、初日の3月15日や春休みはほぼ毎日足を運びました。ほとんどのパビリオンを見たと思います。海外への憧れが強く、西洋諸国のパビリオンに加え、日本企業の展示に未来を感じました。

 ものすごく影響を受けましたね。中でも印象に残ったのが「太陽の塔」の内部にあった、生命の進化をエスカレーターで上がりながら見られる「生命の樹(き)」です。この記憶が後年、オリックス不動産の社長時代、東京スカイツリータウンにある「すみだ水族館」をつくるのに生きました。

 もともとシネコンが検討されていた場所だったんですが、オリックスが「水族館の方が面白い」と提案して採用されたんです。ただ水族館用の設計ではなかったので、大量の水は使えず、面積も小さい。工夫をしないとインパクトがないということで、ペンギンプールの裏側にオットセイを入れました。

 ペンギンは鳥類で、オットセイは哺乳類。進化の順番に見せるのはどうだろうかと考えました。「この発想、どこかであったな」と思い振り返ると、13歳の春に経験した万博の「生命の樹」が原点でした。

 大阪・追手門学院高を経て神戸大農学部へ。進学した70年代は石油危機が日本経済を襲った時期と重なる。

 高度経済成長期は日本のメーカーが成長し、理科系志望者が多かった。僕もその一人で工学部志望でしたが、受験に失敗。当時はオイルショックがあり、食料危機が議論されていました。食料自給率が下がる中で輸入が止まるとどうなるんだろう。農業の生産性を上げないといけない、と。そんな時、たまたま神戸大に農業生産工学科があることを知りました。工学部に行って歯車やシャフトの設計をするよりも夢が大きい。浪人して、2年目は合格しました。

 高校の軟式テニス部の2年先輩でキャプテンだった社(やしろ)三雄さん(69)=元伊藤園専務、尼崎市出身=が神戸大農学部に進まれた影響もありました。よく相談に乗ってもらった先輩の後を追いかけたということです。(聞き手・大島光貴)

    ◇

 時代を駆ける経営者の半生や哲学を紹介するマイストーリー。12人目は、関西エアポートの山谷佳之社長に語ってもらう。

【関西エアポート】オリックスとフランスの空港運営会社バンシ・エアポートなどが中心になって設立。国や自治体などが施設を保有したまま運営権を売却する「コンセッション方式」で、2016年に関西、大阪(伊丹)空港の運営を新関西国際空港会社から引き継いだ。18年から子会社が神戸空港を運営し、3空港を一体運用している。

【やまや・よしゆき】1956年、大阪府吹田市出身。神戸大農学部卒。80年オリエント・リース(現オリックス)。社長室長などを経て、2002年にオリックス信託銀行(現オリックス銀行)社長。その後、オリックス不動産社長などを歴任し、15年から関西エアポート社長。