JR姫路駅のホームで手軽に味わえ、熱々の一杯が多くの人を魅了する姫路名物「えきそば」。店舗を運営する「まねき食品」(姫路市)は、創業135年を超える老舗食品会社だ。全国に先駆け、明治時代に幕の内駅弁の販売を始めたことから始まった同社の歴史で、会長の竹田佑一氏(77)は約4分1の32年半、社長を務めた。
社業だけでなく姫路経営者協会会長などの立場で地域貢献に力を注ぐ。が、実は出身は東京。まねき食品の創業家とは縁もゆかりもない会社員の家庭に生まれた。
東京・中野の育ちです。子どもの頃は野球が好きで。父が日本鉱業(現JX金属)に勤め、会社の野球チームに入っていたんです。一緒にプロ野球を見に行った思い出もあります。でも小学1年になったばかりの時に、亡くなりました。丈夫でしたが、熱中症のようなもので。急なことでした。その後、母は父が勤めていた会社で働かせてもらうことになり、祖母、姉と3人で私の世話をしてくれました。裕福ではなかったけれど、年に1度、クリスマスになると新宿で洋食を食べさせてくれました。エビフライとグラタン。うれしかった。
学生の下宿を受け入れることになった東京の自宅で、慶応大の医学生らに勉強を教えてもらった。麻布中・高、慶応大で学んだ後、損害保険会社に就職する。
小学生の時が一番勉強したかもしれません。父を早くに亡くしたら普通は「医者になろう」とか思うのかもしれませんが、家族に甘えていたんだと思います。中学に入った途端、テニスが面白くなって。1浪して大学に進んでも、テニスにマージャン。今考えると本当に申し訳なかったなと思います。父がいなかったせいか、社会人と接する機会が少なく、どこに就職したらいいかも分からなかった。加えてベビーブーム世代で同級生が多く、就職難でした。
母の勤務先と関係があった日産火災海上保険(現損害保険ジャパン)の採用試験を受け、採用されました。テニスでキャプテンや副キャプテンをやって、リーダーシップが学べていたのか、面接はうまく受け答えができたんです。足をどんと広げていたので、面接官に「君、足は閉じていた方がいいよ」と言われましたが。1年目で人事部の部長か課長かに向かって「優秀な人の給与を高くすべきだ。全体を見ないと会社は伸びませんよ」なんて言ったりもしました。当時から経営者的な発想を意識していたんだと、今になって思いますね。
会社では自動車ディーラー向けの保険などを担当。仕事にはやりがいを感じていた。そのころ、姉の夫が、兵庫で林業や不動産業を営んでいた。
これからは母たちを養わないといけない、恩返しをしないといけないという意識が、社会人になって強くなりました。もっと早く気付いていれば真面目に勉強したんですけどね。今の時代なら起業をする、海外に留学するというようないろんな選択肢があるかもしれないけれど、まだそんな時代ではありませんでした。
損保会社で頑張ろうという気持ちはもちろんありました。でも同時に、このままいてもどうなるんだろうかと思っていました。そんな時に義兄から誘われました。1970年ごろです。義兄は今の朝来市で林業をしており、景気がよくなって不動産業にも手を広げていました。
義兄が持っていた神戸の家が空いていたので、母たちも連れて一緒に住むことにしました。生まれ育った東京は好きでしたからつらかったですよ。いよいよ離れる時、私の人生の分かれ目だなと思いました。将来、何十年後かにこの決断を絶対に後悔するなよ。そう自らに言い聞かせました。(聞き手・大盛周平)
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時代を駆ける経営者たちの半生や哲学を紹介するマイストーリー。11人目は、まねき食品の竹田佑一会長に語ってもらう。
【まねき食品】1888(明治21)年、竹田木八氏が創業。89年に駅構内で幕の内弁当を全国で初めて売り出す。1949(昭和24)年、えきそばの販売を開始。現在は冷凍弁当や「たけだの穴子めし」なども展開する。現社長は竹田佑一会長の長男典高氏(42)。売上高約48億円(2023年8月期)、従業員591人(23年11月末時点)。
【たけだ・ゆういち】1946年、東京都出身。慶応大法学部卒。損害保険会社などを経て74年まねき食品。常務を経て86年、5代目社長に就任。2019年4月から現職。16年5月から姫路経営者協会会長。兵庫県防犯協会連合会では会長まで務め、17年に旭日双光章を受章。姫路市在住。