神戸・旧居留地の三井住友銀行神戸本部。前身の太陽神戸銀行の本店として1987(昭和62)年にできた。地上18階の高層部と、低層部のファサードを配した構造はかつての都市銀行本店の風格を放つ。源流の神戸銀行から培われた基盤を指して歴代頭取は兵庫・神戸を「マザーマーケット」と呼んできた。
4月に三井住友銀行の頭取に就いた福留朗裕(あきひろ)(60)は神戸を訪れて話した。「金融の形は変わり、銀行業も変わっていくが、絶対変えてはいけないものがある。それが地元である兵庫・神戸との関係だ」
その伝統を体現する絵画がある。神戸生まれで日本を代表する画家小磯良平(1903~88年)の大作「働く人びと」(53年)だ。当時の神戸銀行頭取岡崎忠が制作を依頼した。神戸銀行は36年に誕生、都銀として全国展開を遂げた。絵は本店新館が完成した53年に購入され、本店営業部を飾った。
その後、太陽神戸、さくら、三井住友と名称は変わっても絵は銀行の変遷を見つめてきた。2003年に神戸市立小磯記念美術館に寄託され、神戸本部にレプリカが飾られている。
絵は縦194センチ、横419センチと小磯の生涯最大の作品だ。古代ギリシャのレリーフを思わせる構図に神戸の街、農業、漁業、建設業、子を育む母、労働する男女を抽象画として描いた。岡崎は「働く人たちの尊さを描かれたこの絵は物が乏しく、人々の気持ちも暗くすさみがちであった当時、多くの方々に感銘を与えた。当行だけでなく神戸の宝物」と絶賛した。
同館では小磯の生誕120年特別展「働く人びと」が開催中だ。神戸経済の躍進期、新館の壁画を託された小磯が並々ならぬ意気込みで描いたことは展示の習作群から見て取れる。とはいえ叙情性をたたえた女性像で知られる作品の系譜では特異に映る。学芸員の多田羅(たたら)珠希は「本作に込められた小磯の革新性は長く理解されなかった。色調を抑えた穏やかな印象のために看過されがちだが、戦後の復興を願った、未来への希望が感じられる」と話す。
銀行の歴史は合併の歴史だ。絵の制作から70年。神戸に本店はないが、神戸本部ビルにはかつてのように頭取室がある。主(あるじ)となった福留は85年に三井銀行に入り、さくら銀でバンカーとしての腕を磨いた。座右の銘は作家マーク・トウェインの「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」だ。
阪神・淡路大震災から東日本大震災。アジア通貨危機からリーマン・ショック、米シリコンバレー銀行の破綻。スペイン風邪から新型コロナウイルス、インターネットから生成AI(人工知能)…。「似たようなリズムで似たようなことが起きる。明らかに韻を踏んでいる事態が起きている」
◆
さくら銀行と住友銀行の合併で2001(平成13)年に誕生した三井住友銀行。頭取は初代の西川善文以降、4代続けて住友出身者が担ってきた。4月に就任した5代目の福留朗裕(あきひろ)(60)は三井銀行(後のさくら銀行)出身という出自に加え、中枢の企画畑ではなく海外や市場部門の勤務が長い点でも異色だ。
ロンドン、香港、ニューヨークの駐在、カナダの現地法人社長も務めた。海外経験は通算16年弱。08年のリーマン・ショックも震源地の米国で経験した。トヨタへの3年間の出向経験もある。「大切なのはアジリティー(機敏性)とスピード」。コロナ・パンデミック(世界的大流行)、気候変動、ロシア・ウクライナ戦争、ガザ…。迫り来る危機の時代、潮目を読む相場観が福留の身上だ。
センサーが激しく動いたのが1995年1月の阪神・淡路大震災の時だ。さくら銀行の神戸、阪神間の拠点は深刻なダメージを受けた。福留は被災地での同僚たちの奮闘を思いつつ、大震災の1月から地下鉄サリン事件の起きた3月にかけての為替相場の乱高下に得も言われぬ恐怖を抱いていた。「まさに世界が変わるという感じだった。今は当時よりもっとすごい…」
□さくら銀行誕生
9月14日、三井住友銀行の前身、太陽神戸三井銀行(後のさくら銀行)の初代頭取を務めた末松謙一が死去した。97歳。早くから三井のプリンスとうたわれ、太陽神戸銀行との合併を主導した。福留には忘れられない思い出がある。88年に末松が三井銀行の社長に就いた時、京都のホテルで社長披露パーティーが開催された。福留は入行4年目で京都支店勤務。名刺持ちを命じられて末松について回った。「社長って大変だなと思ったが、今まさに同じ境遇になるとは…。縁を感じる」
昭和から平成へ。日本がバブル景気に沸く中、末松は金融激動の予兆を察知し、太陽神戸銀行頭取の松下康雄(故人)と手を組み、合併を決める。三井は日本初の民間銀行として誕生した名門ながら資金量では7番目の中位行。このままでは生き残れないという末松の決断だった。その後、行名は都市銀行初のひらがなの「さくら」になった。
末松は太陽神戸の本店がある神戸に通い、地元への配慮を怠らなかった。「センチメンタルに考えると三井の名前は残したいが、経営判断はそんな生易しいものではない」。名を捨てて実を取ったと評価された。清新な行名で人心を一つにし、行内融和を図ろうとしたところに末松の意思が働いた。さくら銀行は桜の花弁のシンボルマーク、落ち着いたピンクの制服だった。
□三井住友銀行誕生
平成とともに歩んださくら銀行は金融危機の嵐にもまれ、不良債権の重圧に苦しんだ。阪神・淡路大震災でもダメージを負った。合併から9年たった99年、頭取の岡田明重(あきしげ)は住友銀行の頭取西川善文と合併で合意する。行名は三井住友銀行になった。歴史は不思議な韻を踏む。いったん消えた三井の名は復活し、メガバンクの一角に刻まれることになった。
2001年、三井住友の初代頭取に就いた西川は住友の生んだ豪腕のバンカーだ。さくら銀の本拠だった兵庫・神戸を住友出身者として初めて「マザーマーケット」と呼べる高揚感に包まれた。「グループのみなと銀行と合わせ、重要なマザーマーケットだ。(合併で)地元軽視になるのではとの声も聞かれたが、みなと銀と切磋琢磨(せっさたくま)し、利便性を高めていく」
歴史は絶え間なく変転する。神戸銀、太陽神戸銀出身の頭取たちが牽引(けんいん)したみなと銀は今、りそなグループの一角で県民銀行を打ち出している。兵庫の地域金融もまた曲折の連続だった。
◇
数あるトップの肩書の中で頭取という言葉には独特の響きがある。語源は、江戸時代、雅楽の合奏で最初に音を出す人を音頭取りと呼んだこととされる。時代の変化を察知し、いち早く打って出る。揺れる同時代にあってその決断に注目が集まる。(敬称略)
(特別編集委員・加藤正文)