太平洋戦争で激しい空襲被害を受けた明石。その記憶を次代につなごうと、市民団体が毎年この時期、明石市内の戦跡を訪ね歩く催しを続けている。市内で最も被害の大きかった6月9日の空襲から間もなく80年。今年の催しにも小学生から当時を知る世代まで約80人が参加し、平和の大切さをかみしめた。(新田欧介)
■1500人犠牲 平和の大切さかみしめ
今年で通算15回目の開催となる「あかし戦跡めぐり」。平和活動に取り組む「ピースネット明石」の主催で、語り部らの話を聞きながら、同市内の戦跡を回る。主催メンバーや体験者の高齢化などを理由に2019年でいったん終了したが、「実際に訪れ、この地で何があったかを伝えたい」と21年に再開した。
明石市内は、大戦末期の1945年1月から7月にかけて繰り返し空襲に見舞われた。当初は川崎航空機(現・川崎重工業)の明石工場周辺に大きな被害が出たが、2回目の空襲以降は市街地にも大量の爆弾が投下された。市によると、6度の空襲で、計約1500人が亡くなったとされる。