1995年1月17日、未曽有の揺れに遭遇した神戸新聞の記者たちは、未明の街に飛び出し、取材を始めた。倒れた家、広がる炎、避難する人々-。生々しい光景が震災報道の原点となった。当時の記者たちが、地震発生後から約1週間の取材フィルムから数枚をピックアップ。25年前を思い起こす。
「死者は200人を超えるかもしれない」
地震から半日が過ぎたころだろうか。兵庫県西宮市役所1階。集まった職員たちに防災服姿の馬場順三市長(故人)が被害の深刻さを訴えた。疲労の色を隠せない職員たちの表情が険しさを増したように見えた。時間がたつにつれ、被害も課題も膨れ上がることを誰もが知っていた。
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揺れの後、夜が明け、自宅前で周囲を見渡すと、遠くで立ち上る幾筋もの煙が見えた。妻と2歳の息子を隣人に託し、一番近い煙を目指して自転車を走らせた。
行き着いた先は、JR甲子園口駅前。炎を上げる木造建物の隣に、とてつもなく大きなコンクリートの塊が現れた。無人の改札を通り抜け、ホームへ駆け上がり、一心不乱にシャッターを切った。ようやくコンクリートの塊が、7階建てマンションの変わり果てた姿だと気付いた。
こんな現場がいったいどれぐらいあるのだろう。自問すると、未明に生まれて初めて死を覚悟した瞬間がよみがえってきた。被害が広範囲に及ぶことは想像に難くなかった。
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担当する西宮市役所での取材が一段落した深夜、再び甲子園口駅前へと向かった。落下した名神高速や国道171号の高架道路や、道路をふさぐ倒壊家屋に行く手を阻まれながら、ようやくたどり着いた現場では、警察などによる捜索活動が続いていた。日付は既に変わっていた。
目隠しの毛布の向こうで、運び出される人らしき姿が見えた。既に息絶えている様子だった。そんな作業を見守る男性の姿が目に留まった。問い掛けると、妻子が取り残されていること、自身は夜勤で不在だったことなどをとつとつと話し始めた。こちらが後ろめたさを感じるほどの落ち着いた口調だったが、最後まで目は合わせてくれなかった。
新聞製作システムがダウンし、綱渡りのような紙面づくりが続いた。あの朝、駅のホームから撮った20人近い犠牲者が出たマンションの写真は、その日の夕刊にも翌日の朝刊にも掲載されることはなかった。ただ、あの朝の光景は、モノクロ写真の下に刻まれた「’95 1 17」の日付のように、網膜に焼き付いている。
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