1994年に発足した自社さ連立政権で首相を務めた村山富市さんが101歳で死去した。政治の変革期に力を尽くした功績と、党派を超えて信頼された人柄がしのばれる。
社会党(当時)出身の首相誕生は47年ぶりだった。非自民連立政権の枠組みを巡る権力闘争の末、復権を狙う自民党に担ぎ上げられた。望んだ首相の座ではなかったが、自民党政権ではなし得なかった政治課題を解決するのが自らの「歴史的宿命」と見定めたのだろう。短期間で特筆すべき成果を上げた。
戦後50年に合わせて発表した首相談話は真骨頂と言える。アジア諸国への植民地支配と侵略に対する反省とおわびを内閣として初めて明記した。この立場は後の政権にも基本的な歴史認識として引き継がれ、日本の近隣外交の基盤となってきた。
戦後80年を迎え、歴史を都合よく解釈しようとする発言が相次ぐ。今こそ「村山談話」の意義を再確認する必要がある。
広島、長崎の原爆被爆者を対象とした被爆者援護法を制定し、元従軍慰安婦に向けた「女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。水俣病未認定患者の救済にも取り組んだ。いずれも自民政権が先送りしてきた「負の遺産」である。いまも全面解決には至っていないが、社会党出身の首相でなければ清算への一歩すら踏み出せなかったに違いない。
一方、長年対峙(たいじ)してきた自民党との連立で、社会党は大幅な妥協を迫られた。村山さんは首相就任とともに自衛隊合憲、日米安全保障体制の堅持を打ち出し、党の基本政策を転換した。内閣の最高責任者としての決断だったが、党内外の護憲派の批判を浴び、党勢衰退の一因になったのは痛恨だったはずだ。
95年の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件では初動対応が遅れ、危機管理体制の脆弱(ぜいじゃく)さとともに首相の指導力が厳しく問われた。それから1年後に退陣を表明した。
それらの責任を、村山さんは政界引退後も背負い続けた。憲法9条改正の動きを警戒し、平和の大切さを訴える講演などに奔走した。毎年1月17日の朝には自宅で震災犠牲者に黙とうをささげていたという。
大分の漁師の家に生まれ、額に汗して働く市民の目線が「人にやさしい政治」を目指す原点だった。政権の評価は功罪相半ばするが、村山さんの私心のない誠実さと覚悟がなければあの混迷は乗り切れなかった。そう振り返る関係者は多い。
既存政党への不信を背景に政治は再び混迷を深めている。いかに対立を乗り越え政治の責任を果たすか。トップを志す者は村山さんが貫いた無私の姿勢に学ばねばならない。