震災の体験を語る長谷川博也さん(右)。初めて長男の元気さんと共に登壇した=神戸市長田区二葉町5(撮影・吉田敦史)
震災の体験を語る長谷川博也さん(右)。初めて長男の元気さんと共に登壇した=神戸市長田区二葉町5(撮影・吉田敦史)

 「震災30年の節目が終わると、伝える機会が減っていく。風化させないために話してほしい」-。「語り部KOBE1995」の代表を務める小学校教諭、長谷川元気さん(39)=神戸市垂水区=がそう声をかけたのは父の博也さん(74)=同市東灘区=だった。2人が並んであの日のことを伝えたのは初めて。親子でも知らない話があった。(上田勇紀)

 阪神・淡路大震災31年を前に先月21日、神戸市長田区で同グループの集会が開かれた。博也さんは、10年以上にわたって語り部を続ける元気さんに依頼され、あの日からの出来事を原稿にまとめた。

 1995年1月17日。神戸市東灘区本山中町の自宅が全壊し、博也さんの妻規子(のりこ)さん=当時(34)=と三男翔人(しょうと)ちゃん=当時(1)=はたんすの下敷きになって亡くなった。

 博也さんのその日の記憶は断片的だ。鮮明に覚えているのは、友人や親戚たちと一緒に、2人を崩れた家から運び出したときのこと。「完全に、氷みたいな冷たさやったから。もうあかんわと思って」。規子さんは翔人ちゃんを抱きかかえるようにして息絶えていた。

 立ち止まることは許されなかった。当時、元気さんは小学2年生。博也さんは元気さんと、1歳下の次男の子育てに駆け回る。年末には元の場所に自宅を再建し、学習塾で生計を立てながら家事をこなした。

 元気さんが小学3年からサッカーに打ち込むようになると、競技経験のない博也さんは審判講習を受けてチームのコーチになって見守った。中学・高校時代は欠かさず唐揚げと卵焼きの入った弁当を手作りした。前日夜から鶏肉をたれに漬け込み、毎朝揚げる。「お母さんがおらへんからといって、寂しい思いをすることがないように。それが親の義務と思っていたから」

 講演ではこれまで家族でほとんど語ってこなかった話にも触れた。地震後に規子さんと翔人ちゃんの遺体を小学校に安置したこと、元気さんたちが学校に行っている間の過ごし方…。そして「何か判断に困った時は、お母さんならどうするかなと自分自身に問いかけました。正しい答えはそこにあったと思います」。しつけに厳しかった規子さんと、まるで対話をするように子育てを続けた日々を語った。

 元気さんはいま、結婚して3人の子どもがいる。自分が博也さんの立場だったら、果たして同じことができただろうかと想像する。

 「深い悲しみを背負いながらも、私と弟を力強く育ててくれた父には本当に感謝しかありません」

 元気さんもまた、大勢の前で初めて並んだ父に31年分の思いを伝えた。