1941(昭和16)年12月8日に始まった戦争は、子どもにも影を落としていった。神戸市では44年夏に国民学校児童の集団疎開が始まり、当時6年生の駒村文子さん(92)=西宮市=は鳥取へ。家族と半年間離れ離れになり、神戸に帰った直後、空襲で死を目前にした。来年は戦後80年。「戦争は何もいいことはない」。自らの体験を語り、過ちを繰り返さないように呼びかける。(田中真治)

 学童集団疎開は本土空襲を想定し、13都市で計画。神戸市は当時の市域の60校を県内外の寺や旅館に割り当て、3~6年生1万7千人超が参加したとされる。

 文子さんの通う、兵庫運河近くの道場(現明親小)では9月10日、5、6年生約170人が鳥取県西部の淀江町(現米子市)などへ向かった。「軍楽隊の演奏に送られ、夜汽車に乗ってわいわいと。その時はまだ遠足気分でした」