豊臣秀吉の没後、1598年に幼少の豊臣秀頼が跡を継ぎましたが、実権は正室の淀君が握り、豊臣家の権力を維持しようとしました。政権運営は五大老と五奉行による合議制が取られていましたが、次第に徳川家康の勢力が増していきました。
そして1600年、石田三成を中心とする豊臣派と徳川家康の間で関ケ原の戦いが起こり、徳川方が勝利すると豊臣政権は形骸化しました。
さらに14年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣を経て、15年に大坂城が落城し、豊臣家は滅亡しました。徳川幕府は盤石となり、新しい時代が始まりました。
では、豊臣秀吉が愛した有馬温泉は、その後どのような運命をたどったのでしょうか。
有馬温泉は、秀吉存命中には湯山御殿を中心とする豪華絢爛(けんらん)な湯治場として栄え、大坂城の外湯としての役割も果たしていました。しかし、豊臣政権下にあったため、関ケ原の戦い後、有馬の温泉管理者や周辺の有力者は徳川家康に恭順の意を示す必要がありました。特に大坂の豪商である鴻池家や升屋は、家康側への接近を図り、巧みに立ち回りました。
鴻池家は、関ケ原の戦い後、家康側の要人を有馬温泉に招待し、湯治を通じて人脈を築きました。
また有馬の宿主は江戸からの客を意識したのか、温泉の効能や入浴の心得などを記載した「温泉湯治養生記」を発行。これらにより、幕府成立後も有馬の温泉経営を継続していきました。
江戸時代初期の有馬温泉の様子については、儒学者の林羅山が21年に著した「有馬温湯記」に詳しい記録が残っています。
それによると、有馬温泉には庶民から上流階級まで多くの人が訪れており、一の湯・二の湯の入浴には時間制限や人数制限が設けられ、湯女(ゆな)が制限時間を過ぎた入浴客には「上がれ、上がれ」と声をかけて湯から上がらせていました。
温泉は湯船の底の石の間から自噴し、川の水を加えることで適温を保っていたとされています。入浴料に相当する「灯明銭」は温泉寺を中心とする寺院が徴収し、その収益は温泉や寺院の維持管理に充てられていました。
このようにして有馬温泉は、豊臣の時代から徳川の時代へと巧みに移行し、幕府の庇護(ひご)を受けながら発展を続けました。江戸中期には「有馬千軒」と呼ばれるほど繁栄し、全国的な湯治場としてその名を知られる存在となりました。(有馬温泉観光協会)