阪神・淡路大震災から30年がたった。地震の傷痕が見えにくくなり、体験していない世代が増える中で、記憶の継承が課題に上る。神戸新聞の震災学習用サイト「1・17つなぐプロジェクト」は、家族を失った遺族の思いや体験者の声を動画や文章で紹介する。当時の新聞記事やラジオ音声も視聴できる。きょうは「防災の日」。激震に襲われたあの日に立ち返り、次の備えにつなげたい。(上田勇紀)
神戸市須磨区の在日コリアン2世、崔敏夫(チェミンブ)さん(84)は、阪神・淡路大震災で二十歳の次男秀光(スグァン)さんを亡くした。秀光さんは東京の朝鮮大学校に通っていたが、成人式のため神戸の実家に帰省。崩れた自宅の下敷きになって帰らぬ人となった。あれから30年。「伝えることが大事」と、語り部グループで活動を続ける敏夫さんの思いを聞いた。
■暗闇の中で
1995年1月17日午前5時46分。同市須磨区千歳町1の自宅で、敏夫さんは激震に襲われた。
「立ち上がろうにも、立ち上がれない。一体、何が起きたか分からんかった」
2階に敏夫さんと妻、三男の3人、1階に秀光さんが1人で寝ていた。
「スグァン!」
名前を呼んでも返事がない。暗闇の中、急いで1階に下りようとしたが、階段がなくなっていた。
ベランダから外へ出ると、周りの家が倒壊している。秀光さんと思い、がれきから助け出したのは隣人の男性ら。激しい揺れで、自宅は家の2階部分が大きくずれて倒壊していた。
その後、秀光さんを掘り起こした。既に息はなく、顔の半分がうっ血していた。眠っているような表情を見て大声で泣いた。
「涙が出て、こらえることができひん。水道の蛇口をひねったみたいに、止まらんかった」
千歳地区は地震後に火災が広がり、9割の住宅が倒壊・焼失。47人が犠牲になった。
混乱が続く中で同胞たちの支援を受け、同市長田区にある西神戸朝鮮初中級学校(現・初級学校)の教室で、秀光さんの葬儀を営んだ。
■肉声テープ
敏夫さんが、ずっと大事にしてきたカセットテープがある。秀光さんが朝鮮大学校1年の時に小説を朗読する声が録音されている。
「これが唯一、残っている秀光の声。大学校の先生が送ってくれた」
再生すると、早い口調で朗読する秀光さんの低い声が聞こえてきた。
いすに座ってしばらく、敏夫さんはその声に耳を傾けた。外国語学部に学び、将来は大学校の教員になるのが夢だった。目標を生き生きと語る秀光さんの表情が脳裏に浮かんだのだろうか。右手で眼鏡を外すと、そっと涙をぬぐった。
秀光さんは本来、震災前日の1月16日に東京に戻る予定だった。だが、風邪をひいてつらそうな秀光さんの様子を見て、敏夫さんが「もう1日泊まっていったら」と引き留めた。
風邪をうつさないように気遣い、秀光さんは1階で寝た。「次の日に地震が起こるなんて、夢にも思わなかった」。敏夫さんは30年間、前日の一言を悔やみ、引き留めた自分を責めてきた。
■語り部仲間
家の近くにある千歳公園に、震災から10年後に建てられた石碑がある。被害や復興まちづくりの状況、住民同士が助け合うことの大切さが刻んである。
毎年1月17日には、この碑の前で追悼行事を続けている。震災後は積極的に地域と関わり、防災訓練を通じて近所のつながりを育んできた。
そんな敏夫さんが大切にしている活動が語り部だ。
神戸を拠点とする語り部グループ「語り部KOBE1995」の一員として、各地の小中学校などで体験を伝えてきた。小学校時代の幼なじみで、グループを立ち上げた元小学校教諭の田村勝太郎さん(83)=神戸市長田区=に誘われた。
「知らない世代にも、震災を知ってほしい。知ることが備えにつながるから」。講演では、秀光さんを失った悔しさを胸に、南海トラフ巨大地震などへの備えを呼びかける。そんな敏夫さんを、幅広い世代のメンバーが支える。
80歳を超えて、長時間立つのがつらくなった。自身が講演する機会は減ったが、代表の小学校教諭長谷川元気さん(39)=同市垂水区=らに思いを託す。「これからも生の言葉で経験を語り継いでほしい」と。
◆ ◆
崔敏夫さんが体験を振り返り、地域の防災や語り部活動への思いを語る動画(約12分)は、「1・17つなぐプロジェクト」の「震災を語る(動画)」コーナーから見ることができます。
「1・17つなぐプロジェクト」とは
阪神・淡路大震災から30年に合わせて本紙が開設した震災学習用サイト「1・17つなぐプロジェクト」は、神戸新聞電子版「NEXT」内にあり、無料で読むことができます。「震災を語る(動画)」「こども震災学校」など12のコーナーがあり、小中学校での授業などにも活用できます。
【リンク】「1・17つなぐプロジェクト」