8月15日は終戦の日。80年前の神戸新聞から1日1本、記事を原文表記のまま紹介します。

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■昭和20年8月16日 終戦翌日

感激、悲涙を呑む赤子

 巖粛のうちに歴史の日重大放送が静かに巷を流れる、神戸戰災地では馬車も、トラックも、人もハタと止つて声なく脱帽して地にふせた両瞳には大粒の落涙がぼうだとして大地をぬらす、縣立航空工業學校在校生徒は教師に引率されて某部隊のラジオ前に整列し、かつて前例のないこの大放送に赤子を深く●●御思召す聖慮を拝察して感激万魁の慟哭をのむのだつた、放送が終わつても席を離れるもの一人もなく、いつまでもたちつくして去るものもなかつた

※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号

嚴=厳/神=神/戰=戦/縣=県/學=学

 【メモ】8月16日の紙面は、終戦の日の赤子(せきし)、いわゆる国民の様子を伝えている。整列し、拝礼する子どもたちの写真。ラジオの前でうつむきがちに立つ老若男女の姿も映る。紙面に刻まれた彼ら彼女らの息づかいは、戦禍のまちが今につながる過去に確かに存在したという事実を、その事実に正面から向き合う覚悟を、80年後を生きる私たちに突きつける。=おわり=

■昭和20年8月15日 終戦の日

疎開學童から農家へお禮狀

南瓜の贈り物に疎開兒童からお禮狀-揖保郡農業會の親心こもる南瓜五百貫の贈り物に対して龍野地方疎開兒童から眞心あふれる御禮狀が参りました

 農業會の皆様南瓜を有難うございました、私達はそのおいしい南瓜を每日いただいてゐます、ほんたうに有難うございます、私達が疎開して來てだいたい一年になります、その間にあの憎いアメリカが私達の家を燒きました、私達は決して忘れません私達は敵をやつつけるまでこの龍野で頑張ります

若宮校六年 A
(Aは記事では実名)

學=学/禮=礼/狀=状/兒=児/會=会/眞=真/每=毎/來=来/憎=憎/燒=焼

 【メモ】8月15日、神戸新聞など各紙は朝刊1面で「終戦の詔書」を報じた。各社の社史によると、正午の玉音放送終了後に配るよう取り決められていたという。一方、2面では、神戸からの疎開児童によるこのお礼状の話題のように「終戦前」の記事が並んでいた。

■昭和20年8月14日 終戦まで1日

親切に正しく 強く速やかに 中井神戸新市長初登聽

去る十一日神戸市長としての勅裁を経た旨内務大臣から縣を通じて正式通達された中井一夫氏は、十三日午前九時三十分須磨區行幸通の私邸から鉄兜、巻脚絆の決戰服裝も凛々しく初登聽、同十時市長室に入り小憩の後全吏員集合の本聽中庭において初訓示をなし“市長は常に諸君と共に在り、宜しく親切に正しく強く速かに、の四目標を市政遂行上に反映させよ”と烈々たる所信を闡明した

神=神/聽=庁/縣=県/區=区/戰=戦/裝=装

 【メモ】8月11日付で神戸市長に就いた中井一夫氏が13日に初登庁。訓示では「市民と生死を共にしあくまでも神戸市を守り抜かねばならぬ」「港都死守の覚悟を新たにしていただきたい」と述べた。翌々日の15日、玉音放送の後の訓示では「死ぬつもりで市長の重任をお受けいたしたのであったが、決意を変えた」「七生報国の大決心をもって今後とも市政遂行に挺身する」と話した。

■昭和20年8月13日 終戦まで2日

敵の暴爆にも怯るまず “幼き日本”の授業開始
“勝利の日まで”の歌も高く 明るく登校

神戸市兵庫區附近の戰災地から“勝利の日迄”の合唱が朗かに流れてきた、空爆熾烈の神戸としては歌なんて珍しく警報の合間、路をいそぐ行人も思はず微笑みを取戻して歩みを止めた--これは神戸市内の國民學校が十日前後のころから授業を開始したので残留學童が登校の際或ひは學校から帰宅のとき仲よく二列で戰災地をいそぐときに流れる音律だった、授業開始は兒童としては歓呼を発散するものであり、朗かな氣持は自然に合唱となつて流れるのだつた、ソ聯が無謀にも対日宣戰し戰局苛烈となつた昨今、この兒童の音律はどんなに戰災地を明朗にし市民の士氣を鼓舞してゐることか

神=神/區=区/戰=戦/國=国/學=学/兒=児/氣=気

 【メモ】8月8日にソ連が対日宣戦を通告し、進攻を始めた時期に国民学校の授業が再開。記事では、ある校長が「教科書も雜記帳もありません」と明かしている。

■昭和20年8月12日 終戦まで3日

1945(昭和20)年8月12日の紙面が残っていませんでした。

■昭和20年8月11日 終戦まで4日

壯烈・交換台を死守 最近の電話問題の一問一答

戰局苛烈化とともに電話の使用は非常に重点的となつて民間の通話は窮屈となつた、戰災地の神戸附近地帯における復旧工事を晝夜兼行で行つてゐるが、神戸中央電話局長と一問一答を試みてみた

【問】電話の復旧作業ぶりは

【答】何しろ軍の仕事に全力そそいでやらねばならないので思ふように進捗はせぬ

【問】使用されてゐない電話は

【答】加入者が不明だつたり、不必要とされてゐるものなど合せてざつと二万台はある、資材はどし●●と回收する方針である

【問】交換手は元氣ですか

【答】熾烈な空襲下といへども交換台に國旗を張りつけて一刻たりとも離れない、葺合局では交換台を死守し爆死した娘の子もゐる

壯=壮/戰=戦/神=神/晝=昼/收=収/氣=気/國=国

【メモ】空襲下の電話の話題。冊子「神戸電話の歩み」によると、1945(昭和20)年の神戸の加入数は2月の3万8300件から7月には1830件に減っている。

※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号

■昭和20年8月10日 終戦まで5日

炎天下 除草特攻の四勇士

順調な陽ざしを浴て稲田は青く伸びる、稔る秋の大戰果はもはや疑ひないが、今こそ最後の手入れ期だと青田に笑つて進軍の四勇士が現れた、村の人々は除草特攻隊と呼んでゐるが、この四勇士は除草奉公十五町歩をめざして部落の田地を片端から除草攻めの進軍をつづけてゐる

 有馬郡廣野村、A(30)B(19)C(28)D(19)の四君で、手不足の農地三町八反歩余を引受けこれを四番除草まで専念挺身を約してゐる、盛夏のお盆十三日まで終日田の草と取組み延十五町歩を克服しようといふのだ、A君は傷痍勇士で他の三君は晴れの入營を待期する若人ばかり、この不屈の魂はやがて精強無比の皇軍特攻魂となつて爆発するときが來るのだ

(A~Dは記事では実名)

戰=戦/廣=広/營=営/來=来

【メモ】雑草を取り除く「除草特攻四勇士」。1932(昭和7)年の第1次上海事変での「爆弾三勇士」など美談化された戦意高揚の表現が農作業にも使われている。

■昭和20年8月9日 終戦まで6日

關西に三百六十機 大、中、小型が侵入行動

敵米はさる六日廣島市を新型爆彈で攻擊、人道を口にしながら彼等の残虐性を遺憾なく発揮したが、これに引續き敵米國の眞珠湾敗戰記念日たる八日を期し來襲し來つたこの日午前七時ごろ約七十機のP51が和歌山縣西部より侵入阪神附近の航空施設、交通機関、船舶等を攻擊また同時刻ごろ紀伊水道から侵入したB29約五機は阪神上空を旋回行動後反轉して四國西南端から脱去した、別に九時ごろ四國西南端から侵入したP38四機のうち二機は明石附近の軍事施設を他の二機は愛媛縣を行動した

關=関/廣=広/彈=弾/擊=撃/續=続/國=国/眞=真/戰=戦/來=来/縣=県/神=神/轉=転

 【メモ】関西への空襲に絡み、8月6日に広島に投下された原子爆弾に言及。この日の別の記事では「新型爆彈は落下傘式のもので著地前(着地前)に空中で炸裂し、その威力については目下調査中であるが軽視(軽視)を許さざるものがある」としている。

■昭和20年8月8日 終戦まで7日

1945(昭和20)年8月8日の紙面が残っていませんでした。

■昭和20年8月7日 終戦まで8日

《新司偵》スパイを恐れよ

◇戰争が終りに近づけば近づくほどスパイの行動は、活溌になる例を欧州戰に見ると、前大戰當時ロシアの某飛行将校が独逸スパイのマタ・ハリに國境線の重大要衝の祕密を洩らしたため、次の戰闘でロシアが大敗を喫したとがある

◇さる二十七日、省線三宮駅から鷹取駅まで乘車した筆者は、元町駅から乘車した四十歳前後の産業戰士三名の話にふと耳をかたむけた、「米國をやつつけるために目下某所でかかる新兵器をつくつてゐる、その資材を運搬中である」その擧句「腹が減つては戰が出來ない夜勤なんかもう止めだ」といつた按配だ、若しこの話をスパイが聞いたらどんなであらうか

戰=戦/當=当/國=国/祕=秘/乘=乗/擧=挙/來=来

 【メモ】読者投稿コーナー「新司偵」に寄せられた労働者の会話。マタ・ハリはオランダのダンサーで、定説では、第1次世界大戦中に要人に接近し、フランスの軍事機密を聞き出してドイツに流していたとされ、スパイ容疑で逮捕されて処刑された。

■昭和20年8月6日 終戦まで9日

鮮魚の出廻り現狀

最近魚の配給が皆無の狀態になつている、果して魚はとれてゐないのだらうか、現狀を打診してみる
兵庫縣は魚の生産縣である、從つて魚獲高も少くはない 

 十八年度は千三百八十万貫に達してゐる、王座が「イカナゴ」で四百三十万貫、「イワシ」が百二十六万貫「タラ」四十四万七千貫「カレヒ」四十四万七千貫「サバ」三十二万八千貫「アヂ」二十万三千貫
 だが十九年度漁獲高は千万貫足らずの狀態になり、二十年度は更に小型機の跳梁のため減額は必至と豫想される

連年の減額にはいろいろの原因があるが、漁業用資材は外國産に依存してゐて補充がきかぬから、今日は全くジリ貧の狀態にある 

狀=状/縣=県/從=従/豫=予/國=国

 【メモ】兵庫県の漁獲高が1943(昭和18)年度の5・2万トンから戦局の悪化などで減少傾向に。県水産漁港課によると、2023年の県内の漁獲高は10・1万トンで、半分近くを養殖ノリが占める。

■昭和20年8月5日 終戦まで10日

勝利の産ぶ聲・戰ふ「有馬産院」

敵の暴爆は、愈本格化してきた、この際敵の魔の手から姙産婦を、生れ出づる第二の國民を護るとは必至の問題である、神戸市ではこのことに着眼、湯の街有馬に神戸市立有馬産院を経營、相次ぐ敵の空襲下いかに戰つてゐるか「戰ふ有馬産院」の姿を素描してみる
有馬産院は元旅館をそのまま使用したもので、純日本式の部屋で静かに産前産後の養生が出來るのは姙婦にとつて一番の喜びであらう 

 産院が眞の使命を発揮しだしたのは三月十七日の神戸空襲以後である、あの日から入院者は激增、さらに六月五日の戰災で産院は超満員の盛況である、六月二十日前後には入院者が七十七名、赤ちやん四十名といふ産院にとつての最高記録を作つた 

聲=声/戰=戦/姙=妊/國=国/神=神/營=営/來=来/眞=真/增=増

 【メモ】有馬温泉街の旅館を転用した産院の話題。北神区役所有馬出張所によると、1944(昭和19)年12月に開設され、院長や事務長のポストが置かれた。

■昭和20年8月4日 終戦まで11日

幽靈人口を徹底一掃 神戸地方檢事局で全縣下檢察

米の幽靈人口絶滅を期し神戸地方檢事局では近く縣下全般にわたり主として工場、飯場、生産者(農家)を対象とする檢察を大々的に行ふこととなつた、不正申告による配給米詐取については現在まですでに相當数が処刑あるいは起訴されてをり、最近の例としては

▽縣下三田の某土工飯場では三十名の人員を五十名と噓僞の申告をなし二十名分四石の不正配給を受けてゐた、関係者十二名は目下拘束中で懲役五年から八年を求刑されてゐる▽多紀郡下の某村會議員は実收高と保有米の数量を詐はり約二十俵を隱匿してゐたことが判明、去る六月末起訴懲役二年を求刑された

靈=霊/神=神/檢=検/縣=県/當=当/僞=偽/會=会/收=収/隱=隠

 【メモ】米の配給を巡る人員の水増しなどの摘発事例。「検事局」は現在の検察組織の前身とされ、1890(明治23)年11月施行の「裁判所構成法」で裁判所ごとに設置すると定められていた。

■昭和20年8月3日 終戦まで12日

農民道義は果して地に墜ちたか 懐ろ手の疎開者 もつとお互に扶け合ふ氣で

敵機の跳梁下、食糧增産と戰ふ農民の姿は力強い限りである、然し農村の人々の道義心は地に墜ちたと都會人はいひ、農民はまた買出しに狂奔する都會人が純朴な農村を傷けたといふ、神崎郡豊富村村長と一問一答を試みた

問 お百姓さんと疎開者との間はうまく行つてゐるか

答 余りうまく行つてゐない、農村は今忙しいのだ、疎開者が早くから風呂にでも入つてぶらぶらしてゐると農民もいい氣持はしない

問 都會の食糧事情は窮屈になる一方だが農村はどうか

答 まだまだ余裕はある

問 供出すれば後は勝手だといふ考へが農民にあるのではないか

答 大いにある、食糧增産に携はるものだけが食べ、生産戰士が饑もじい思ひをしていいはずはない

氣=気/增=増/戰=戦/會=会

 【メモ】農村における神戸などからの疎開者との関係や食糧事情の話題。豊富村(現・姫路市)の村長がインタビューに答えている。

■昭和20年8月2日 終戦まで13日

縣下報道に挺身 義勇隊、口傳隊共に成る

 すでに戰争が始る前から、新聞通信社は敵の報道宣傳機関と火華をちらして激戰を交へて來た、これまでにも幾多の尊い戰死者も出したし、交通、通信、運輸の窮屈化は取材、編輯の面でも配達面でも日一日と困難さを增してくる、ここにおいて縣新聞関係者ならびに新聞配給関係者は、自社意識を拂拭、神戸新聞社長を隊長として職能兵庫縣報道義勇隊を結成、平常通りの新聞発行が出來なくなつた場合にも特報の貼り出し、謄寫版刷りの特報配布などを行ひ、縣下が戰場化した場合などには、軍および警察當局と緊密な連絡をとり、メガホンで刻々の情報を傳へ、重大責任を果すため義勇隊とは別に兵庫縣口傳報道隊を組織した

縣=県/傳=伝/戰=戦/社=社/來=来/增=増/拂=払/神=神/寫=写/當=当

 【メモ】本土決戦に備えて兵庫県内の報道機関が連携。新聞を発行できなくなる事態を想定し、メガホンで情報を伝える「口伝隊」を組織した。

■昭和20年8月1日 終戦まで14日

殘留組にも授業再開 神戸の三年生以上學童

都會も戰場と化した今、ヨイコ達もこの戰場で大和魂を練ることになつた--大都市に残留する國民學校の一、二年生は躾訓練を寺子屋式に行つて、三年生以上は登校に及ばずとて全學童の疎開を勧奬するとともに、事実上學校を閉ぢてゐたが今度文部省では三年生以上で都市に残留するものに対しても學校を再開さすことになつて神戸市にも指示してきた、神戸市残留學童ははつきりしたことは判らないが、先づ七千名どころとみられてゐる、これらは現在殆ど登校してゐない狀態であるが、年九百時間以上は學校授業を行ふもので、從つて一日二、三時間の授業はやらねばならないわけである

殘=残/神=神/學=学/會=会/戰=戦/練=練/國=国/獎=奨/狀=状/從=従

 【メモ】疎開せずに神戸に残る現在の小学3~6年生に対して授業を再開。中学1年生以上は「決戰教育措置要綱」によって1945(昭和20)年4月から法的に授業が停止していた。