8月15日の終戦の日まであとわずか。80年前の神戸新聞から1日1本、記事を原文表記のまま紹介します。

8月はこちら

6月はこちら

5月はこちら

■昭和20年7月31日 終戦まで15日

インフレにも勝拔け

燒土と化した大都會の眞中に五十米もありさうな行列が續いてゐる戰争保險などの支拂を待つてゐる人達だ、ここで戰災者は無造作に五千円の金をポケツトにねじこむかうして金がだぶついてゐる、そこで記者は銀行に飛び込んでインフレ考現學を窓口氏に訊いてみる

インフレシヨンが発生する理由は軍需品需要に必要な政府資金の散布にありますが、影響が大きくなるのは國民に責任があるのです
品物が減る一方通貨は增加してゐます、神戸を例にひきますと、戰前每月末には約一億円が銀行から出ましたが、預金になつて数日のうちに還つてきてゐました、最近は保險金の拂戻しなどで神戸市内のみでも二億円に達してゐませう

拔=抜/燒=焼/會=会/眞=真/續=続/戰=戦/險=険/拂=払/學=学/國=国/增=増/神=神/每=毎

 【メモ】インフレの現状を銀行員が解説。書籍「最近の日本戰争保險制度」によると、空襲被害などが対象の戦争保険の支払額は、1945(昭和20)年6月分だけで、全国で約44億7千万円に上った。

■昭和20年7月30日 終戦まで16日

戰ふ市民に暖 神戸市の親心

 戰ふ市民を寒さから護らう--と神戸市物資局では戰災跡地に頑張る市民に薪と炭を贈らうと躍起になつてゐる、期間は八月五日から十五日間で、市の周辺の姫新、播但など各方面の燃料組合関係者に薪と炭の出荷を督勵し、市の不急トラツクと市内省線各駅の空貨車を総動員して寒くならぬ眞夏の間に市内へ持込むことになつてゐる 

 なほこの市の薪炭運搬には各駅のどこといはず空地があればそこを薪炭の山とし寒くならぬ前に戰災地の市民を皮切りに逐次全市民へ贈らうといふ溫い親心である

戰=戦/神=神/勵=励/眞=真/溫=温

 【メモ】夏のうちに、市民が冬に暖をとるための薪と炭を神戸市が準備している。気象庁の統計によると、1945(昭和20)年の神戸の平均気温は15・1度で最高が34・9度、最低がマイナス5・3度。2024年は平均が18・4度で最高が36・9度、最低がマイナス0・5度だった。

■昭和20年7月29日 終戦まで17日

近く各地へ醬油貨車

醬油の配給不円滑がお台所の恐慌となつてゐるため縣當局では産地龍野へ廿六日係員を派遣して龍野醬油はじめ各醸造元と懇談した結果、勞務不足、容器問題、輸送の問題などについて隘路打開に乘出すこととなりまた現在の從業員に対しては「一層馬力をかけて頑張つてくれ」と酒や自轉車部分品の配給をすることになつた

 貨車の都合つき次第この月末頃から神戸市はじめ縣下各地へ醬油貨車が續くことであらう

醬=醤/縣=県/當=当/勞=労/乘=乗/從=従/層=層/轉=転/神=神/續=続

 【メモ】しょうゆ不足に対し、兵庫県が産地・たつのの醸造元と協議した。竜野醬油協同組合名義で1959(昭和34)年に発行された史料集の序文で、当時の理事長が戦時中のしょうゆの置かれた状況に言及。「種類や等級などを全廃して商品としての生命を奪うと共に、伝統の販路をも全く無視し、主として兵庫県内の配給品に終始するといつた惨めな地位に追いやられた」と振り返っている。

■昭和20年7月28日 終戦まで18日

神戸市長、中井一夫氏 きのふの市會で推薦

神戸市の市長推薦市會は二十七日銓衡委員會を開き大多数をもつて原案を承認、直ちに議員総會に移り、本會議を開會、野田前市長辞任の経緯についての報告あり、後任市長候補者推薦を議題に上程、この際議長指名に一任すべしとの動議あり、満場異議なくこれを承認、衆議院議員中井一夫氏を指名推薦、総員起立をもつて賛成の意を表し、ここに後任神戸市長には一名の反対者もなく中井代議士を推薦することに決定した、なお諸般の手續上正式就任は八月三、四日ころとなる見込である

神=神/會=会/續=続

【メモ】神戸市長を辞した野田文一郎氏の後任人事。神戸市会が、銓衡(せんこう)委員会をへて神戸地裁判事などを歴任した中井一夫衆院議員の推薦を決めた。「百年を生きる 中井一夫伝」によると、引き受けるに当たって中井氏は「爆撃の続く神戸で、市民とともに死んでくれということだろう」と考え、全議員の満場一致での推薦を条件に付けたという。

■昭和20年7月27日 終戦まで19日

腸チフス發生 豫防注射を實施

腸チフスに御用心--去る六月下旬以來神戸市の一部から腸チフスが発生してをり、現在のところでは患者数は僅であるが漸次蔓延の兆を見せてゐるので、市厚生局ではさきごろ町内會を通じて豫防ワクチンの内服藥を配給したが、市民全体に行き渡らなかつたので近くさらに病魔の完全防遏を目指し希望者を町内會で取纏めた上市立東山病院内の豫防課で豫防注射を施行する

 腸チフスの発生個所はいづれも市内兵庫區と長田區の燒残りの地域からである

發=発/豫=予/實=実/來=来/神=神/會=会/藥=薬/區=区/燒=焼

【メモ】空襲の焼け跡で腸チフスが蔓延(まんえん)。「神戸市防疫年報」によると、人口1万人当たりの発生率(%)は1943(昭和18)年=15・28▽44年=27・81▽45年=66・38、死亡率は、43年=2・63▽44年=6・08▽45年=17・56-と急増し、「未曽有の大流行」と指摘している。

■昭和20年7月26日 終戦まで20日

神戸は廿六日から實施 縣下各都市にも綜合配給制

敵機の頻襲下に敢闘する市民の食生活を確保するため、兵庫縣では神戸市ほか縣下重要都市に食料品の綜合配給制度を実施することになり、二十六日午後一時各市代表を集めて決戰配給体制確立協議會を開き、綜合配給の具体的実施方法につき協議、打合せを行ふ

 神戸市については百十ケ所の綜合配給所を設け、青果、鮮魚、味 、漬物、海陸乾物の綜合配給に當り、狀況を見た上酒、醬油、塩、将來は燃料、日用雜貨品、医療品まで配給の範圍に含め、立派な綜合配給を実現する計画で、二十六日から実施する

神=神/實=実/縣=県/戰=戦/會=会/海=海/當=当/狀=状/醬=醤/來=来/雜=雑/圍=囲

【メモ】食料品を集めた総合配給制度が神戸市などでスタート。だが、8月7日の記事では「味噌、醬油、塩の配給がなく野菜があつても……と溜息吐息の現狀」と指摘しており、食料品不足の解消にはほど遠い実情がうかがえる。

■昭和20年7月25日 終戦まで21日

B29沖繩基地より初來襲

三頭會談に対する政略的効果を狙ふとともに我軍民離間の謀略的企圖を多分に持つて去る十日以降我本土に近接関東、東北、北海道の各地區に対し艦上機による攻擊、或は艦砲射擊などを実行しつつあつた敵機動部隊はその後南下して二十四日には早朝來東海地區以西の各地區に対し艦上機を以て攻擊を加へ來つた、またこれに策應してB29、P51なども東海地區以西の各地區に來襲したが來襲機数の概略は艦上機P51など小型のみ約一千機B29延約六百機で小型機の攻擊目標は主として航空基地であり、またB29は名古屋地區、大阪地區に主力をかつて來襲、一部は岡山、徳島、神戸、姫路、和歌山桑名などに來襲してゐる

繩=縄/來=来/會=会/圖=図/海=海/區=区/擊=撃/應=応/神=神

【メモ】組織的戦闘が終結した沖縄からもB29が来襲。「三頭會談」は、米英ソの首脳が第2次世界大戦の戦後処理を協議したポツダム会談のことで、7月26日に米英中3国の名で日本に降伏勧告した。

■昭和20年7月24日 終戦まで22日

急速な復興を陳情 縣商經會が市長代理に交付 

戰力增強の重要拠点とみられる神戸市が、戰災復旧に著しく遅延を見せてゐることは戰局に影響するところ甚大なものありとし、縣商経會では特に交通、水道の復旧、市民の食生活ならびに衞生問題等目下の重点たる五項目を意見書として神戸市長代理に陳情を行つた

一、交通機関の復旧 六月五日の災後いまなほ市内電車の復旧進捗せざるは洵に遺憾とする所なり、宜敷各方面の技能を動員し早急復旧を望んで止まず、速に不要路線を決定してこれが資材を緊要路線に轉用し、或は又復旧に相當余日を要する路線に付ては自動車連絡を復活する等の方法を実施せられたい

縣=県/經=経/會=会/戰=戦/增=増/神=神/衞=衛/轉=転/當=当

【メモ】6月5日の空襲は「市民の足」だった市電にも深刻な被害を与えた。「神戸市交通局100年史」には「須磨・布引・春日野の3車庫が焼失し、架線のほとんどは切断されて全線不通」とある。

■昭和20年7月23日 終戦まで23日

壕も護岸にご注意 むやみに掘るのは危險です

二十一日早朝からの豪雨は相當の雨量のために西神戸をはじめ魚崎、芦屋方面に床下侵水家屋が相當あり土砂崩壊のため神戸長田區で家屋一戸全壊、また出水甚だしい箇所では交通機関も一時運行を停止したが同日夜破損箇所も殆ど復旧し交通機関も平常に復した

今後も降雨による出水も豫想されるので河川防護の徹底を期する必要がある、豪雨が余りなかつたので治水の重要性を忘れ、堤防を利用してむやみに防空壕や横穴壕を掘つたりすることは最も危險だから絶対に愼しみ不測の水害に備へて河川沿岸住家は特に護岸など河川の護につとめなければならない

險=険/當=当/神=神/區=区/豫=予/愼=慎

【メモ】6月16日の記事では堤防を活用した壕を「見事」と見出しでうたっていたが、豪雨によって「最も危險」と指摘している。気象庁の統計によると、神戸では、記事にある7月21日の午前6~10時に83・9ミリの降水量があったとの記録が残る。

■昭和20年7月22日 終戦まで24日

P公の來襲に 有馬郡の婦人義勇隊活躍

十九日朝有馬郡某村では國民学校校庭で義勇隊婦人隊の結成式が擧行されてゐた、突如敵P51はわがもの顔の超低空で襲つたのだ“今誓つた義勇隊の進路こそまづ防火戰の実践だ”だと全員現場へ急行消火の大熱戰を展開する一方、これより先出火の縣でも“目のある待避”に凱歌を擧げ區民一体の消火活動はあの密集した藁屋部落を完全に一戸のみで消火に成功した

 婦人義勇隊の戰闘轉移、部落民の鮮やかな初期防火は実に殊勳甲であつた 

來=来/國=国/擧=挙/戰=戦/縣=県/區=区/轉=転/勳=勲

【メモ】見出しで「P公」と表するP51は米軍の戦闘機で、低空からの機銃掃射で攻撃を加えた。「西宮市史 第七巻 資料編4」によると、7月19日午前9時25分に有馬郡などを米軍機60機が襲撃したとの記録がある。6人が死亡し4人が負傷、5戸が全壊するなどして25人が家を失ったとの被害が残る。

■昭和20年7月21日 終戦まで25日

燒跡は表札を大きく 最近の郵便問題を聽く

最近の通信関係の一般の声にA神戸中央郵便局長の回答を求めた
▽轉居者の場合 現在は届先のわからん郵便が一日に三千通はある、轉居する人は届けてほしい
▽壕生活者の場合 壕生活をして居れば手紙は著かんといふ人があるがそんなことはない、大きな表札を貼つておいて貰ふことだ
▽通信遅延問題 遅れるのは東京、大阪のやうな大都市で中都市から來る分は殆んど遅れない、北海道からでも三、四日で來てゐる
▽ポストの問題 倒れたポストは通用しないがそれ以外は燒跡にあるポストでも集配に行く
▽通信防諜 無一物になつたとか、誰それが負傷したとか等は書いてもかまはない
(Aは記事では実名)

燒=焼/聽=聴/神=神/轉=転/著=着/來=来/海=海

【メモ】栄町通の神戸中央郵便局舎は3月17日の空襲で焼失。書籍「百年史 神戸ゆうびんの道順」によると、神戸駅構内と元町のビルに機能を移して事業を続けた。

■昭和20年7月20日 終戦まで26日

空襲下決戰輸送に敢鬪 A神戸驛長惜まれて勇退

“吾らの駅長さん”として港都市民に親しまれた神戸駅長A氏が十七日附で神戸を去ることになつた、氏は港都陸の玄関を預かつて敢闘、好成績をあげ、今回功なり名遂げて三十三年の鉄道生活にお別れすることになつた

 在任三年半、この間の鉄道の変りやうも神戸の変りやうも全くお話になりません、その間に処して幸ひ大禍なく過すことが出來ましたのは一重に港都軍官民各位の御協力の賜です、三十三年の鉄道生活にお別れするといふ今、心から名残り惜く思ふのは、この間に親しくして頂いた各方面各階層の皆様の厚い人情にあるのです

と感慨深げに語つた
(Aは記事では実名)

戰=戦/鬪=闘/神=神/驛=駅/禍=禍/來=来/層=層

【メモ】神戸駅長が引退。JR西日本によると、当時の駅舎は1934(昭和9)年11月に完成した3代目で、改装などをへて現在も使われている。

■昭和20年7月19日 終戦まで27日

呆れた戰災道義の裏街道

海賊があり山賊があるのだから市賊とでも名づけるべきか、最近の戰災地跡農園の野菜泥棒は誠に許し難い存在である、それが戰時刑法によつて如何に嚴罰に処せられるかはいふまでもないさきに馬鈴薯二貫目を盗んだ野荒しに二年の重刑が課せられ、また現行中を見張り人に発見されて袋叩きに合ひ絶命したが、加害者は「準正當防衞」として執行猶豫となり、野荒しは死損-の判決も下つたほどだ

 さらに不埒なのは被爆のドサクサに紛れて戰災者の持ち出し荷物を掻拂ふ市賊だ、
 手口が單なる出來心的なものでなく、飽くまで計画的であることは憎むべき所業である、
 この吸血鬼こそ死刑にしてもあきたりない奴だ

戰=戦/海=海/嚴=厳/當=当/衞=衛/豫=予/拂=払/單=単/來=来/憎=憎

【メモ】ジャガイモ7・5キロの窃盗に執行猶予が付かず、盗みを働いた相手を暴行して死亡させても執行猶予が付く。1942(昭和17)年3月施行の戦時刑事特別法下での厳罰化の例を挙げている。

■昭和20年7月18日 終戦まで28日

わが家の最後の男 敢然、兄に續かん海軍志願

本土決戰の勝機いよいよ迫り戰局は正に重大化する秋、兄弟全部を戰線に送つた家から最後の男が敢然と征途につかんとする……

 敵醜翼のため神戸で二度も罹災しながら自分の職域に敢闘を續けてゐる多紀郡南河内村出身A君は父母を早く失ひ長兄B上等兵、次兄C軍曹、三兄D准尉は揃つて御奉公に征で立ち、男とてA君独りの軍國の家で「僕も海軍に志願して來ましたぞ」驚く兄嫁に明るく語るA君……天晴れ日本男子の覺悟である、そして檢査の當日「どうだつた」と訪ねる家人達に「大丈夫だ」と簡單な返辞だけである

(A~Dは記事では実名)

續=続/海=海/戰=戦/神=神/國=国/來=来/覺=覚/檢=検/當=当/單=単

【メモ】両親を亡くし、兄3人が出征中の少年が海軍へ。書籍「赤紙と徴兵」によると、当時は国民皆兵で「志願」のほか、徴兵検査による「徴集」や予備役らを「赤紙」で呼び出す「召集」があった。

■昭和20年7月17日 終戦まで29日

後任市長の推薦命令 野田神戸市長の辭職認可

 野田神戸市長は去る九日持永兵庫縣知事に辞表を提出したので縣當局では直に内務省に手續した結果十三日附で内務大臣から辞職の認可発令があり、同時に八月十三日までに後任市長を推薦すべき旨命令があつたので十五日市會議長に対しその旨通達した、これに対し神戸市會では右の旨十六日の幹事會に報告したが縣當局では後任市長推薦期間を辞職承認後一ケ月といふ建前にはなつてゐるが

 この超非常時局下に市の首腦部が一日でも缺けることは面白くなく辞職承認と時に後任市長推薦命令が発せられた趣旨からしても後任市長決定の一日も速かたらんことを要望してゐる

神=神/辭=辞/縣=県/當=当/續=続/會=会/腦=脳/缺=欠

【メモ】野田文一郎神戸市長の辞職が認められ、後任の推薦手続きへ。「神戸市史 第三集 行政篇」によると、当時の市長は市会が候補者を内務大臣に推薦し、天皇の裁可を経て選任していたという。

■昭和20年7月16日 終戦まで30日

けふから勝札 第一回賣出し

待望の勝札第一回賣出しはけふ十六日から全國一斉に開始される、発行総額二億円のうち兵庫縣割當は七百万円

 一枚十円で一等十万円二百本以下、二等一万千八百本、三等一千円一万八千本、四等五十円十八万本、
 五等十円三百八十万本當籤数合計四百万本

當選した場合元金の十円は戰費に献金するといふのが從來とは変つた狙ひだが當選者は却つて御奉公になるといふので前景氣は上々、すでに豫約が殺到し勧銀神戸支店その他関係方面は汗だくである

 八月二十五日には抽籤が行はれ
 三十日には現金が支拂はれる

賣=売/國=国/縣=県/當=当/戰=戦/從=従/來=来/氣=気/豫=予/神=神/拂=払

【メモ】現在の宝くじに当たる「勝札」の発売。東京宝くじドリーム館によると、明治期以降政府は「富くじ」を禁じていたが、戦費調達とインフレ解消などを狙って解禁。結果的に抽せんが終戦後となり「負札」と呼ばれたという。

■昭和20年7月15日 終戦まで31日

お台所のお盬の心配解消 神戸市は電氣製盬で自給自足

塩は戰ふ國民にとつて武器だ-敵との戰ひが凄愴苛烈を極める今日都市にとつて殊に食用塩は榮養源となることは勿論調味料としても全く必須な物資であるが、戰局の切迫は家庭用塩の減配を余儀なくすることになつた、兵庫縣は我が國でも屈指の塩の生産地であり、縣下にも相當の手持があるとしてこの生産を軽視することは許されぬ、塩が國土を護る彈丸となつて行く限り一刻も早く縣下の各市町村でその自給自足に積極的な手を打つべきではないだらうか、神戸市では市民必需塩の確保について市食糧增産本部が五十余万円の豫産で電氣製塩に乘り出すことになり種々計画を進めてゐる

盬=塩/神=神/氣=気/戰=戦/國=国/榮=栄/縣=県/當=当/視=視/彈=弾/增=増/豫=予/乘=乗

【メモ】神戸市が「電気製塩」を計画。「近代日本塩業史」によると、海水などに直接電流を通し、その発熱で水分を蒸発させて塩分を結晶させる方法という。

■昭和20年7月14日 終戦まで32日

縣下の田植ほゞ終る 甘藷植付も目標にいま一息

今年の食糧決戰の勝敗を双肩に担つていま縣下農村では敵機の銃爆擊を冒して田植に、甘藷の植付に決死的增産作業がつゞけられてゐるが兵庫縣農務課に集つた報告によると頗る順調でほゞ目的を達成し食糧戰に勝ち拔く十八万農家の旺盛な闘魂に凱歌があがつてゐる

 田植は麦刈の遅れた関係で一週間ほど延びたが氣候も大体順調
 但馬丹波、多可、宍粟郡内は完了、瀬戸内沿岸と淡路が九割程度であと僅かで全完了となる

甘藷の植付は目標に対し六割五分の成績だつたがその後徳島から苗が大量に移入したのをはじめどしどし出廻つて不足は解消、十三、四日中には目標通りの植付は完了する見込で甘藷增産に対する農村の意氣込は大したものだ

縣=県/戰=戦/擊=撃/增=増/拔=抜/氣=気

【メモ】田植えとサツマイモの植え付けの話題。イモ類については、1941(昭和16)年8月に「藷類配給統制規則」が公布され、自由販売が禁止されていた。

■昭和20年7月13日 終戦まで33日

一人十殺の猛訓練 手榴彈擲と突倒を實施

兵庫縣學徒隊では勤勞學徒の手待時間を活用し闘魂の鍊成と技能力の向上を圖るため投擲力および体當り格闘力の鍊成強化を行ふことになり、十二日各學徒隊長宛通牒した、鍊成種目は手榴彈投擲と押(突)倒、捻倒、格闘力で体當り精神の鍊成を目指して勤勞時間を最大限に活用するほか出來れば特設の時間を設けて眞劍に行ひ、生産責任完遂の氣魄を養ふ一方非常の秋には一発必殺の戰技能力を発揮させる

練=練/彈=弾/實=実/縣=県/學=学/勞=労/鍊=錬/圖=図/當=当/神=神/來=来/眞=真/劍=剣/氣=気/戰=戦

【メモ】米軍の本土上陸に備えて結成された「学徒隊」の戦闘訓練の記事。工場での作業などの合間に、手榴弾の投てきや対人の格闘力を高めるよう通達している。書籍「国民義勇戦闘隊と学徒隊」では、男子学徒は遊撃戦や局地戦、夜間戦闘の「習熟」に加え、危険かつ高度な「対戦車戦闘」の訓練も求められていたとしている。

■昭和20年7月12日 終戦まで34日

子供が計畫的犯罪

七日明石空襲の日、兵庫縣某課長が課員二名と急行した際、明石署前で署員から少年を託された、少年はA(十一)と自称し、戰災を受け両親も死亡したので、大阪の叔父に身を寄せたいといふので、課員が神戸長田區の自宅に連れ帰り、一晩泊めたうへ、弁當と五十円の金を持たせて長田署員に託し送つてやつたところが少年は大阪駅の人混にまぎれて失踪し、八日朝大阪の警察のものと称する男が少年を連れて課員の自宅を訪れ、行先が判らぬからもう一晩泊めてくれといふので預つたところ、銀行預金、郵便貯金通帳(五万余円預入)と衣類数十点を持つて姿を眩してしまつた、少年を使つた計画的な惡質犯罪として縣刑事課、長田署で行方を嚴探してゐる

(Aは記事では実名)

畫=画/縣=県/戰=戦/神=神/區=区/當=当/惡=悪/嚴=厳

【メモ】7月7日の明石空襲を巡る少年絡みの事件記事。「明石市史 現代編Ⅰ」によると、この日の空襲で360人が死亡した。

■昭和20年7月11日 終戦まで35日

戰災孤兒院や保育所 縣厚生課を擴充、具體的計畫

兵庫縣では戰災援護の積極的強化を図るため厚生課の機構を擴充、從來の應急的救助から積極的な援護に躍進すべく具体的計画を進めてゐる、近く誕生するのが戰災孤兒院で両親を失つた可哀さうな子供を國の宝として大切に育て上げようとの親心から、縣立農工學校と眞生塾(元神戸孤兒院)ほか一ケ所に設けて百名づつ收容する

また母子のための戰災保育所二ケ所、老人を收容する戰災養父院、戰災疎開者の主婦にミシンその他の家庭工業や農業等自活の途を教へる授産所を設置する計画も進められてゐる

戰=戦/兒=児/縣=県/擴=拡/體=体/畫=画/從=従/來=来/應=応/國=国/學=学/眞=真/神=神/收=収

【メモ】戦災孤児の受け入れ先として現在の兵庫県立明石学園とともに指定された神戸真生塾。当時から中央区中山手通にあり、3月17日に育児部が、6月5日に母子寮がそれぞれ空襲で全焼したが、残った施設で運営を続けたという。

■昭和20年7月10日 終戦まで36日

不埒の闇二つ

兵庫署で檢擧された闇取引二つA(三四)は神戸方面で甘味品を賣ればボロ儲けが出來ると唆かされたのを眞に受けて友人B(五五)C(五一)の両名と共謀し三名とも全財産を賭けてはるばる山口縣から飴十貫宛を買求めて、さる二十四日飴を約八十倍の百十五円で賣捌かうとしたところを檢擧、七日送局した、また神戸兵庫區湊川町D(六一)は最近の煙草不足に乘じ一日湊川駅附近道路上で「光」三個を一個十二円の割で賣つてゐたところを檢擧されたが、過去にも新開地復興食堂や雜炊食堂の行列人に「光」と「金鵄」を何れも一個十円で賣捌いてゐたこともあり七日送局した

(A~Dは記事では実名)

檢=検/擧=挙/神=神/賣=売/來=来/眞=真/縣=県/區=区/乘=乗/雜=雑

【メモ】あめとたばこの闇販売の摘発事例。「たばこ専売史 第2巻」によると、銘柄の「金鵄(きんし)」は1940(昭和15)年11月、「国防体制の緊張化」によって敵性語の「ゴールデンバット」から変更された。

■昭和20年7月9日 終戦まで37日

野田神戸市長辭意 市政に新たな活力者を期待

野田神戸市長は最近健康も勝れず時局の急迫化と戰災後における復興事業の重大性に鑑み、辞任を決意し、七日持永知事と面會、更に市會正副議長とも會見、辞意を表明、八日には市吏員に対し告別の辞を述べたが辞表は知事を経て内務大臣に提出される

野田神戸市長談
最近の戰局は極めて重大であり本土決戰に備へるためにも、神戸市の復興のためにも元氣のある者が市政の責任を負ふべきであります、最近私は健康を害してをり、且つまたこの際新たな活力を以てこの重大時局下の神戸市政に當るべき人の出馬を望んで辞意を決意した次第です、辞任後も國家百年の大計樹立のため、実践を望んでやみません

神=神/辭=辞/戰=戦/會=会/氣=気/當=当/國=国

【メモ】当時の野田文一郎神戸市長が辞意。「神戸市史 第三集 行政篇」によると、戦前の市長は公選制ではなく、辞める場合は内務大臣の認可が必要だった。

■昭和20年7月8日 終戦まで38日

靴修繕の切符制 神戸に三ケ所店開き

通勤者にとつてなくてならぬ靴の修理が材料不足でなか●●出來ずたとひやつて貰へても法外な料金をとられる始末、この深刻な足の惱みを解決するため兵庫縣では靴修理の切符制を実施すべく準備中のところ、愈々七月から店開きする運びとなつた、修理券所有者は券二枚と修理靴一足を指定日に指定作業所へ持参、料金を拂つて現品預かり証を受取る

朝持つて行けば夕方には修理出來た靴を受取ることが出來る、修理料金は一足最高十五円で破損がひどく十五円で修理出來ぬ靴は修理券と一緒に出せば新品または更生靴と交換して呉れる

※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号

神=神/來=来/惱=悩/縣=県/拂=払

【メモ】切符制による靴の修繕や「更生靴」との交換の話題。当時は服や車、紙などさまざまな物に「更生」が付されていた。1939(昭和14)年発行の書籍「廢品回收及更生品」は、更生品を「廢品を原料として新たに製造されたるもの」と定義づけている。

■昭和20年7月7日 終戦まで39日

花よりお藷でゆかう 有馬の溫室も育苗場に轉向して

溫室の完備と化學肥料に併せ勞費も惜し氣なく数年間花卉栽培へ挺身した有馬郡八多村A君(30)は、昨年來断然食糧增産に轉向して村内外の同業者を動かしてゐる、数千円を投じ建設した五十余坪の溫室にかつては色とりどりの花が咲き、幾十万本となく神戸市場に送られたのが、いま青一色の甘藷育苗場に変つた、從來の家族勞務を以て一町余反の耕作中で三十貫の甘藷育苗からさらに一万本を採苗して移植苗を增育した、部落内はおろか八多村全村へ配給しようとしてゐるが花より團子とA青年は決戰下の食糧增産へ挺身してゐる

(Aは記事では実名)

溫=温/轉=転/學=学/勞=労/氣=気/來=来/增=増/神=神/從=従/團=団/戰=戦

【メモ】現在の北区八多地区の花き農家がイモの育苗へ「転向」。北神区役所八多出張所によると、花き栽培が本格化したのは戦後の高度成長期。カーネーションやダリアなどを出荷したが、後継者不足などで現在は縮小傾向という。

■昭和20年7月6日 終戦まで40日

奇特な衞生兵

神戸の戰災地から顔面に大火傷をした老婆が城崎郡豊岡駅へ降りた
見ればまだ火傷の手當も受けずそのまゝ痛々しい姿である、駅前をトボ●●と力なく歩いてゐる有様にフト目をとめたのは某陸軍病院の一衞生兵であつた

 お医者へ立寄つても中々順番が來ず、そのまゝ処置をうけずに帰國して來たと聞いた衞生兵は同情し「私の病院へお出なさい賴んで見てもらつてあげます」と優しくいたはり、金廿円を老婆に渡してこれを慰めた

通り合せた憲兵さんに傳へられたこの美はしい話が豊岡憲兵派遣隊長の耳に入つて老婆へ寄せた奇特な衞生兵の調査が行はれてゐる

※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号

衞=衛/神=神/戰=戦/當=当/來=来/國=国/賴=頼/傳=伝

【メモ】神戸から豊岡へ逃れてきた戦災者に対し、優しく対応したという陸軍病院の衛生兵の話題。1944(昭和19)年ごろに参謀本部が作製した陸軍病院の一覧表によると、兵庫県内には姫路と加古川に置かれていた。

■昭和20年7月5日 終戦まで41日

廣い農園付きの戰時住宅 八月中旬までに神戸に二千戸建設

戰災都市に頑張り通す要残留者の住宅を確保するため、兵庫縣では戰時住宅建設本部を設置して住宅一万戸の建設に乘り出すことになり、八月中旬までに神戸市で二千戸を建設すべく準備を開始した

 知事が本部長となり、土地工作物管理使用收用令によつて土地所有者の意思に拘らず知事が一方的に使用権を設定、これを戰時住區に指定して住宅建設にかかる、一戸五坪以内のバラツク式簡易住宅で敷地は百坪、これに五十坪の農園を附設する

建設のための地均し、資材の輸送、建築の一部には市内の國民義勇隊を出動させ、本建築には高工、工業學校建築科の學徒を動員する

廣=広/戰=戦/神=神/縣=県/乘=乗/收=収/區=区/國=国/學=学

【メモ】「土地工作物管理使用收用令」は、国家総動員法に基づく1939(昭和14)年12月の勅令。戦局の悪化などに伴って改正され、使用権や収用権などの適用範囲が拡大された。

■昭和20年7月4日 終戦まで42日

子連れで出來ます姙婦疎開 尻込みの第一陣も朗らかに 近く神戸出發

生れ來る愛兒と母親を空襲から護り生めよ殖やせよの國策にそふ神戸市の姙産婦集團疎開は廿九日で第一團を締切つたが、申込者は定員七十五名のうち五十名といふ不成績、これは市の計画が文字通り姙産婦のみの疎開に限定したため既に一緒に生活してゐる乳幼兒を家に残して疎開をしなければならない羽目にぶつかり市の溫い親心も仇情けになりかけたもので市當局では空爆激化の狀勢でもありこの点等も十分に考慮に入れ産院のほかに母子寮や保育所も併置する段取りで市では現地に係員を派遣する等開設準備に汗だくである

來=来/姙=妊/神=神/發=発/兒=児/國=国/團=団/溫=温/當=当/狀=状

【メモ】神戸市による妊産婦疎開の記事。「産めよ殖やせよ」は1941(昭和16)年1月に閣議決定された「人口政策確立要綱」に基づくスローガンで、出生数の目標として夫婦1組当たり5人を掲げていた。

■昭和20年7月3日 終戦まで43日

サツパリしませう無精ひげ 料理屋さんも器用に進出

神戸市内屈指の目拔街であるこゝ省線三宮駅高架下附近に近ごろさながら雨後の筍のやうに俄床屋さんが增してきた、この床屋さん達は何れも六 五空襲以前まではそれぞれ理髪の店舗をかまへて立派に營業してゐた人々や、料理屋の主人など中國の人々で、苦面して入手した理髪道具を唯一の元手に文字通り何の設備もない路上の營業ながら、空襲以來兎角蓬髪、無精ひげを余儀なくされてゐる市民に非常に喜ばれてゐる、捲土重來を期して雄々しく起上つた街の一点描である、

神=神/拔=抜/增=増/營=営/國=国/來=来

【メモ】6月5日の空襲後、三宮の路上で「俄(にわか)」の理髪店が増加。記事中の「省線」は後の国鉄、現在のJRで、戦前に管轄していた鉄道省、運輸通信省にちなむ。書籍「思い出の省線電車」によると、戦時下の鉄道は兵員輸送の「兵器」とみなされる一方、紙不足によって段ボールを切符に転用するなどしていたという。

■昭和20年7月2日 終戦まで44日

沖繩の島田知事に應へ 先輩に續けと二中生徹夜業

沖縄皇軍の決戰に協力し、武威を中外に昂揚した島田知事の陣頭挺身こそわれ神戸に取つて同知事と由緒深かつただけに縣民の決意を新たならしめるものがある、郷土に島田知事を偲んで見よう

島田知事は縣立神戸二中出身で神戸市西須磨の自宅から通學してゐた、この時代の二中は野球黄金時代を現出し島田さんは四年生のときは主将をしてゐた

なほ同校では學校工場で全校生徒が敢闘してゐるが、素晴しい作業能率をあげて島田知事の敢闘に應へてゐる、夜勤の二直制を平常とし、かつ三直制の徹夜作業を行つてゐるのは他に例なく全學徒は闘魂を沸らせてゐる

繩=縄/應=応/續=続/戰=戦/神=神/縣=県/學=学

【メモ】沖縄戦で住民保護に尽力した神戸二中(現・兵庫高校)出身の知事、島田叡(あきら)。記事には、赴任を前に「政府もよく人を見るぞ、わしのようなやつを任命しよったからな」と知人に笑ったという逸話も載っている。

■昭和20年7月1日 終戦まで45日

縣下重要地區へ 神戸の消防陣營を移駐

空襲後の消防陣營の重点強化をはかるため兵庫縣警察部では七月一日から神戸市内六消防署のうち葺合、兵庫、須磨三消防署を阪神間東播、西播の重要地區に移駐し

兵庫消防署は伊丹大隊(大隊長兵庫消防署長)葺合消防署は東播大隊(明石、大隊長葺合消防署長)須磨消防署は西播大隊(姫路、大隊長須磨消防署長)に派遣、署長以下署員消防自動車等神戸市内消防陣の約三割に相當する人と物を配置轉換することになり、神戸市内は東、中、西の三箇大隊を編成東神戸大隊は灘、葺合両區を、中神戸大隊は生田、兵庫両區を、西神戸大隊は長田、須磨両區を管轄

縣=県/區=区/神=神/營=営/當=当/轉=転

【メモ】空襲被害の拡大を受け、消防の態勢強化を図るため、神戸から職員らの一部を伊丹、明石、姫路に配置転換。「兵庫県警察史 昭和編」によると、当時の消防は警察の1セクションであり「警察部防空課」に司令部があった。

 

6月1日~30日はこちら

5月7日~31日はこちら