80年前の太平洋戦争末期、沖縄は凄惨な地上戦の舞台となり、「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい艦砲射撃にさらされた。地中には今なお、約1900トンの不発弾が残っているとされる。その殺傷力は衰えることはなく、今月には不発弾が破裂し、陸上自衛隊員4人が負傷する事故も起きた。陸自は1日1カ所以上のペースで処理を続けるが、全ての不発弾をなくすには70年から100年の歳月が必要という。今年3月、不発弾処理の現場を訪ねた。(石川 翠)
沖縄本島南東部の南城市。3月下旬の早朝、市道沿いの空き地に「不発弾処理」と記された車両3台が止まり、迷彩服を着た10人ほどが降りてきた。
那覇市に拠点を置く陸自の「第101不発弾処理隊」。沖縄の本土復帰から2年後の1974年、幼稚園の近くで旧日本軍の地雷が爆発し、3歳児ら4人が亡くなり34人が重軽傷を負った。この事故を受けて発足した撤去の専門部隊だ。
今回の現場は、市道の拡張工事で木々を伐採していて見つかった。市道を挟んだ向かいには小学校がある。児童の姿はないが、教員らが出入りしている。
処理の予行演習の際に現物を見せてもらった。「5インチ艦砲弾」という。長さ約50センチの筒状のものが転がっている。茶色い。さびも目立つ。見た目はボロボロだ。「外側がさびていても中は真空状態で、火薬の威力は衰えていません」。岩瀬亘隊長が説明した。
周囲の道路が封鎖された。号令がかかり、隊員が不発弾をネットで慎重にくるむ。クレーンでゆっくりと引き上げ、「耐爆容器」の作業台に載せる。この容器は、神戸製鋼所(神戸市中央区)が不発弾処理のために開発したものだ。
台をスライドさせて容器の中に入れ、密閉する。内部カメラが、弾頭部分を映し出す。「点火」の合図で隊員がスイッチを押すと、「ボン」という音とともに画面が真っ白になった。