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夫義一さんの書庫で、在りし日を振り返る藤本統紀子さん=芦屋市奥池町(いずれも撮影・三津山朋彦) 浜風の家。子どもたちが大きなクスノキの下で遊んだ=芦屋市浜風町
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夫義一さんの書庫で、在りし日を振り返る藤本統紀子さん=芦屋市奥池町(いずれも撮影・三津山朋彦)

浜風の家。子どもたちが大きなクスノキの下で遊んだ=芦屋市浜風町

  • 夫義一さんの書庫で、在りし日を振り返る藤本統紀子さん=芦屋市奥池町(いずれも撮影・三津山朋彦)
  • 浜風の家。子どもたちが大きなクスノキの下で遊んだ=芦屋市浜風町

夫義一さんの書庫で、在りし日を振り返る藤本統紀子さん=芦屋市奥池町(いずれも撮影・三津山朋彦) 浜風の家。子どもたちが大きなクスノキの下で遊んだ=芦屋市浜風町

夫義一さんの書庫で、在りし日を振り返る藤本統紀子さん=芦屋市奥池町(いずれも撮影・三津山朋彦)

浜風の家。子どもたちが大きなクスノキの下で遊んだ=芦屋市浜風町

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 1995年。震災の数日後、シャンソン歌手藤本統紀子(ときこ)さん(82)=西宮市=は、夫義一さんが自宅から避難所に向かう姿を何度も見送った。義一さんは色紙にメッセージを描き、被災者を激励した。その後も全国で講演を重ねる合間を縫っては避難所に駆け付けた。

 何が義一さんを駆り立てたのか-。統紀子さんは、根底に義一さんの戦争体験があるという。

 戦時中、12歳の義一さんは米軍の機銃掃射を受けた。自身は助かったが、間近で友人を亡くした。「多くは語らなかったけど、被災地の惨状を戦争体験に重ねていたのかもしれない」

 浜風の家の設立構想が持ち上がると、義一さんは全国行脚して寄付を呼び掛けた。「子どもたちのために」との共感が広がり、数百円の小遣いから金塊まで国内外から寄付があった。奈良県十津川村からは建材用のスギやヒノキが届いた。建設用地は、義一さんが貝原俊民兵庫県知事(当時)に直談判し、県有地を借りることになった。

 10万人以上から寄せられた2億円近い善意。義一さんは驚き、静かに喜んだ。「大きな声は上げず、『きたぜ、きたぜ』と拳を握りしめるように。人と人の関わりで熱い思いが伝わり、うれしかったのでしょう」と統紀子さんは懐かしむ。

 施設は99年1月17日に開館。ログハウス風の木造2階建てで、ピアノが置かれ、遊戯室やパソコンルーム、図書室も備えた。大きなクスノキにはブランコが下がり、子どもらが思い思いに過ごした。

 ある日、ルールを守らずに遊んでいた男児がけがをした。ところが、男児の母親は施設の指導員に「うちの子が悪い」と頭を下げた。伝え聞いた義一さんは「なかなかええお母さんがおるもんや」と感心したという。統紀子さんは「自由におおらかに子どもが遊べる場所になっていた」と振り返る。それは何より義一さんが望んだ姿だった。

 義一さんの死後、統紀子さんが理事長に。土地の貸与期限を迎え、施設は今月17日以降、取り壊しに向けた準備に入る。「このまま残せないものか」。義一さんの思いをかみしめると、どうしてもあきらめきれない気持ちになるという。「みんなの思いが詰まった施設。子どもにはこうした環境が必要だから」

 浜風の家で実現した義一さんの理想。震災を知らない世代につないでいく。

【浜風の家】阪神・淡路大震災で被災した子どもらをケアしようと、作家の藤本義一さん=2012年死去=らが呼び掛け人となり寄付を集め、1999年1月17日、芦屋市浜風町に設立した。同年春から児童館としての運用も。ピーク時の00年度は年間延べ約1万2千人が利用。兵庫県が土地を貸与してきたが、18年3月に期限を迎える。

2018/1/12
 

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