1853年に始まったクリミア戦争で、ナイチンゲールが看護団を率いて赴く前、傷病兵収容所で何が起こっていたか。兵士は傷ではなく、劣悪な衛生環境で亡くなっていた。
衛生状態の改善で、兵士の死亡率は劇的に減った。環境を整えれば、生来備わった治癒力が発揮される。看護とは、その人の生活を整えることだ。
阪神・淡路大震災は兵庫県立看護大学長として経験した。看護師は避難所や仮設住宅を回り、きめ細かい生活指導に取り組んだ。多くの「関連死」があったのも事実だが、食中毒や感染症が非常に少なかったことは、世界にとって驚きだった。
看護師は震災で多くを学んだ。「学んだものを眠らせるのはもったいない」との思いから、日本災害看護学会を設立した。次々に起こる災害の経験を蓄積、体系化し、新たな取り組みへとつないでいく。
震災前、災害看護は、日本赤十字社から紛争地に派遣される少数の看護師のものだった。日常とは無縁と考えられていた非常事態が、実は日常と隣り合わせと気付いたのが震災だった。
日常から非日常を考え、日常に非日常を組み込む。そういう意識で備えなければならない。
2011年、高知県立大学の学長に就任した。南海トラフ巨大地震への備えを確かなものにしたい。それが使命だと思っている。
(聞き手・森本尚樹)
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阪神・淡路大震災当時、兵庫県立看護大学(現兵庫県立大学看護学部)学長だった。
神戸市西区のマンションで寝ていたが、体が宙に浮く感覚で目覚めた。午前7時ごろ、同じマンションに住んでいた同僚教授の運転で明石市の大学に向かった。南方面の空が、火災でピンク色に染まっていた。
大学でテレビを見ることができ、ようやく事態を把握した。緑色の公衆電話が生きており、テレホンカードをかき集めて教職員や学生に片っ端から安否確認の電話をかけた。
全国の看護師が続々と被災地入りした。
日本看護協会の現地対策本部を大学内に置き、病院や避難所の受け入れニーズを調べた。「“お客さん”のような形なら不要」と断られても、「必要なことは何でもする。水も食料も自前で用意する」と訴えた。
真っ先に看護師を出してくれたのは、沖縄県。県の看護協会長が沖縄戦を経験していて、何をすべきかを知っていた。その知恵に助けられた。
被災者のケアに当たった地元の看護師は、自身が被災者でもあった。
苦しんでいる人がたくさんいる中で、息抜きなど考えられず、1カ月もたつと、人を責めたり怒ったりする場面が増えた。そんな時、1989年の米・サンフランシスコ地震を経験し、当時県立看護大に勤務していたパトリシア・アンダーウッド教授の講話を聞く機会を学内で設けた。
「あなたたちの被災者としての苦しみ、悲しみも大事にして。元気になれる人からなればいい」という言葉に、だれもが涙を流した。その後、それぞれが自らの生活を顧み、支援者側のケアにも乗り出した。
1998年に日本災害看護学会を設立。2008年には世界災害看護学会を立ち上げた。
従来、災害時に看護師に期待されていたのは、救命救急の活動だった。だが、直接けがの手当てをするだけではなく、被災者の生活環境を整えるという大切な役割がある。
災害はたびたび起こるのに、震災前は、災害看護を専門分野と捉える発想がなかった。経験を理論化し、人材を育成し、実践する仕組みを作らなければならない。世界学会の大会では阪神・淡路の経験が必ず紹介され、他国の避難所運営などに役立っている。
大学の学長を務める高知県は、南海トラフ巨大地震の脅威にさらされている。
東西に長い県域なので、研修に参加できない看護師向けに出前講座を開いている。大学の学生たちも自ら、被災が想定される地域に入って課題を考える「未災地ツアー」に取り組んでいる。今年4月には、兵庫県立大などとともに国内5大学による災害看護の共同大学院がスタートした。
高知県立大の学長引き継ぎの日、東日本大震災が起きた。津波の映像にぼうぜんとしながら、天命のようなものを感じた。南海トラフ巨大地震を見据え、災害看護の後進を育てることが私の役割だと思っている。
記事・森本尚樹 写真・峰大二郎
みなみ・ひろこ 1942年、神戸市生まれ。高知県で育つ。聖路加看護大学教授などを経て、93年に兵庫県立看護大学長。2011年、高知県立大学長。日本看護協会長、国際看護師協会長、日本災害看護学会理事長を務めた。
2014/7/20