東京に住んでいた高校1年のとき、阪神・淡路大震災が起きた。その日の夜、食事をしながらテレビを見ていると、同年代の女の子が「お母さん!」と泣き叫んでいた。
外国の映像や遠い昔の記録であれば、さほどショックを受けなかったと思う。けれど、私が家で熱々のご飯を食べている時、同じ国でそんな大災害が起きているという事実は、理解を超えるものだった。
震災を機に、地震学者になりたいと思った。地震学者になれば、被害を防ぐことができると考えた。
大学院に進んでから、地震学の現状に疑問を感じ始めた。「大地震はまた起こるの?」という市民の素朴な疑問や関心をよそに、専門領域を極めていくだけの研究でいいのか、と。
2004年の新潟県中越地震では、
余震で家が倒壊し、亡くなった女の子がいた。余震の危険性が伝わっていなかった。同じ年にインドネシアなどを襲ったスマトラ沖地震では、地震と津波の関係が住民に理解されていなかった。どちらの震災も、救えた命がもっとあるはずだった。
地球と対話するだけではなく、人々や社会と対話する地震学者になろう。その思いを胸に研究を続けてきた。(聞き手・森本尚樹)
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2008年4月、東京大学地震研究所の広報アウトリーチ室専属となった。そこでは、どんな仕事を。
アウトリーチとは、研究者自らが社会に出向いて、研究で得られた知見を人々に伝える活動。日本の大学ではこれまであまり重視されていなかったが、私は研究者の義務だと感じている。
地震や津波で多くの命が奪われていることを考えれば、地震学のアウトリーチは特に重要だと思う。博士号を持っていても、一人の命を守れないようでは研究の意味がない。
小学校での防災教育は、慶応義塾大に移った今も継続して取り組む。
東大のアウトリーチでは、東京都内の公立小学校にモデル校になってもらった。カリキュラムに「防災」を組み入れ、継続的に出向いて授業をした。
最初は「理科の先生」として教えていたが、途中から「体育の先生」という意識に変わった。知識だけでなく、「机の下に素早く潜る」といった行動を体に覚え込ませる。子どものころに体に染みこんだ避難行動は、成長しても忘れない。
大人に対しても、講演などで具体的な備えと行動を呼び掛けている。
単純に災害の脅威を伝えるだけでは、備えにつながらない。家具固定などの「面倒くさい行動」を、「価値ある行動」という捉え方に変えるよう話している。
例えば、親が家具を固定していれば、子が自分の家庭を持ったとき、その習慣を受け継ぐ。親が子どもに行動を見せることで、子々孫々を救うことになる。自らの行動に、そんな「価値」を見いだしてもらいたい。
授業や講演では冒頭、阪神・淡路大震災の映像を見せる。
阪神・淡路大震災による直接死の大半は、壊れた住宅や家具による窒息死。焼死の人も、多くは家の下敷きにならなければ逃げることができた。関連死も、家を失い、厳しい避難生活を強いられた結果だ。
家や家具が倒れないように備えていれば、あれほどの被害にはならなかった。それが阪神・淡路の重い教訓。幸い、日本にはそれを防ぐ技術や法律、人々の見識もある。
阪神・淡路大震災は、自身にとって何だったか。
震災がなければ、地震学者にはなっていなかった。同世代には「阪神・淡路大震災をきっかけに今の道に進んだ」という人が多数いる。それほど大きな出来事だった。
あの揺れを直接経験していなくても、私たちの世代は中高生として見た震災を「原体験」に持ち、それぞれの仕事をしている。そういう人たちで一度集まり、語り合ってみたい。
記事・森本尚樹
写真・辰巳直之
▽おおき・さとこ 1978年、東京都出身。北海道大学理学部卒。東京大学大学院理学系研究科で博士号取得。米・カリフォルニア大サンディエゴ校の海洋学研究所を経て、2008年から東大地震研究所助教。13年4月から現職。
=おわり=
2014/1/20