震災から15年の歳月が流れた今も、巨人の捕手、鶴岡一成(32)は疑問を抱いている。
「あの状況で野球をやってもよかったのか」
鶴岡は昨季、巨人の2番手捕手として日本一に貢献した。いぶし銀の活躍が光るプロ14年目の捕手は高校時代、神港学園の主将として1995年の選抜高校野球大会に出場している。阪神・淡路大震災発生から2カ月後の被災地で開幕した春の甲子園だ。
震災が起きた1月17日から1カ月間、センバツは開催の可否が決まらなかった。甲子園球場がある西宮市、近隣の神戸市、芦屋市が大打撃を受けた。犠牲者は6400人を超え、ライフライン、交通網が寸断された。地震直後は野球どころではない状態だった。
鶴岡が在籍した神港学園は神戸・元町の北に位置し、被災地の真っただ中にあった。在校生が犠牲になり、野球部員の何人かは家を失い、避難所生活を強いられていた。高砂市在住だった鶴岡は直接的な被害は受けなかった。だが、当事者ではなかった分、被災者の痛みを重く感じた。
賛否両論の中、大会は決行され、神港学園は出場校に選ばれた。鶴岡は中学時代から全国大会で活躍し、甲子園を目指して強豪の門をたたいた。過酷な練習に耐え、幼いころからの夢をかなえた。しかし、素直には喜べなかった。
鶴岡は振り返る。「一人の球児としてはセンバツをやってほしかった。そのために頑張っていたから。でも、周りの状況を考えると、自分たちだけ野球をやってもいいのかと思っていた」
実際、練習中に周囲から罵声(ばせい)を浴びたこともある。「『お前らだけええんか』と。センバツ開催は大人が決めたことなのにね」。10代のころに刻まれた記憶が、今も鶴岡の胸を刺す。
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大会には兵庫から神港学園、育英、報徳の3校が出場した。前年秋の近畿大会で神港学園は準優勝、育英は4強、報徳は8強。戦力的に選出には遜色(そんしょく)がなかったが、同一県3校出場は異例。「被災地への配慮」とも受け止められる中、3校はそろって初戦を突破してみせた。
神港学園は1回戦で強豪の仙台育英(宮城)に逆転勝ちし、2回戦で大府(愛知)を1点差で退けた。兵庫勢で唯一8強まで勝ち残り、準々決勝で左腕、藤井秀悟(現巨人)を擁する今治西(愛媛)に延長十三回の末、サヨナラ負けを喫した。
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被災地代表の無念の幕切れは情緒的に語られた。だが、鶴岡には感傷めいた部分はなかった。「勝ち負けじゃなく、みんなで集まってまた野球ができた。野球が面白いことを再確認した」。思いはそれだけだ。甲子園でプレーした喜びはあっても、震災センバツの是非には結びつかなかった。
15年が過ぎ、鶴岡は30代の大人になった。32歳の社会人として客観的に考えれば「あの大会はやらなかった方がよかった」とさえ思う。でも、高校球児の立場に戻れば、答えは逆だ。
「何度聞かれても難しい。微妙です」。あの春の記憶をたどると、いつも最後は言葉に詰まる。
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阪神・淡路大震災から2カ月後の1995年3月に開幕した第67回選抜高校野球大会。震災の傷跡がまだ色濃く残る被災地にこだました球音。賛否に揺れる中、大会開催を決断するまで、関係者たちはどう動き、何を考えたのか。震災15年を機に、あらためてそのプロセスに迫る。=敬称略=(松本大輔、山本哲志)
2010/1/16