プレハブの群れが風景を圧倒していた。神戸市西区の「西神第七仮設住宅」。そこに、仮住まいの気軽さなどなかった。震災の傷跡そのものが横たわっていた。
甲子園球場の約二倍の面積に百二十棟が並ぶ。被災地で最大規模。ピーク時は千六十世帯、千八百人が暮らした。
「今でもあそこへ行くと、ここにあの人が暮らしていた、あの時あんなことがあったと思い出し、涙がこぼれそうになる」。入居者を見守り続けたボランティア団体「阪神高齢者・障害者支援ネットワーク」の黒田裕子副代表が言った。
六十五歳以上の一人暮らしが四百五十世帯。若い世代は生活を立て直し、次々と出て行く。やがて、お年寄りの姿ばかりが目立つようになった。社会の縮図。日本の将来を見た思いがした。
第七仮設があったのは、一九九五年四月から九九年九月まで。今、跡地は新しい住宅街に変わりつつある。
「移転先での新しい暮らしになじめず、出歩かなくなったお年寄りもいる。月日はたちましたが、今も心のケアは大切なんです」
青空の下、響くつち音を耳にしながら、黒田さんの言葉をかみしめた。(写真部 三浦拓也)
2004/5/12