エピローグ 今も息づく清兵衛の精神
鉄道、皮革…県内で多数の企業設立
明治から昭和にかけて活躍した実業家、川西清兵衛(1865~1947年)は新明和工業と大和製衡(やまとせいこう)、デンソーテンの前身である川西機械製作所のほかにも多くの企業を起こした。各社の軌跡をたどると、兵庫で暮らす私たちと身近な接点が浮かび上がる。
■日本毛織
兵庫津の有力商家だった川西家の婿養子となった清兵衛が、地元実業家らの出資を受けて1896(明治29)年に設立した日本毛織(本店・神戸市中央区)は毛織物メーカーの国内最大手で知られる。「安定を求める清兵衛の経営姿勢が、新型コロナウイルス禍の中で真価を発揮した」(國枝康雄・総務法務広報室長)という。
同社の2020年11月期決算は過去最高益を更新する見通しだ。本業の学生服や業務用制服は景気の影響を受けにくく、加古川や千葉・市川の工場跡で運営する商業施設などの不動産事業は、祖業の毛織物をしのぐ稼ぎ頭に育った。織機の保守を起源とする機械製造子会社は、自動車部品工場に生産ラインを納入。保育や介護事業に参入するなど新たな事業にも挑む。
■山陽電気鉄道
清兵衛は鉄道会社の経営にも力を注いだ。1907(明治40)年、山陽電気鉄道(同市長田区)の前身となる兵庫電気軌道を神戸の財界人らと設立し、初代社長に就いた。当時、長距離用の蒸気機関車が走る既設の鉄道(現JR山陽本線)に対し、近距離に適した電車を敷設する機運が高まったからだ。
皇室御料地や神戸・舞子の風致保存などの問題を克服して段階的に営業距離を延ばし、17(大正6)年に兵庫-明石間を開通。続いて別会社を設け、23(同12)年に明石-姫路間を開通させた。両社が合併したことで兵庫-姫路間の直通運転が実現した。
現在、山電は年間に延べ5900万人が利用する。経営統括本部の芝池信子さんは「安全・安心の電車運行をはじめ、不動産や流通などの事業で清兵衛の堅実さと進取の気性を受け継いでいる」と話す。
■川西倉庫
清兵衛ゆかりの企業で唯一、社名に「川西」を冠するのが川西倉庫(同市兵庫区)だ。毛織物の原料である輸入羊毛を保管する目的で、03(明治36)年に創業した。「赤字続きだった川西機械製作所の飛行機造りに、倉庫業のもうけの一部を充てたと聞いている」と若松康裕社長。日本毛織の業容拡大とともに、拠点を全国に広げた川西倉庫。現在は食糧を中心に多彩な物資を扱う。
■山陽
皮革メーカー大手の山陽(姫路市)は、日露戦争のロシア人捕虜が持つなめし技術を活用しようと、姫路の官民が設けた姫路製革所をルーツに、11(明治44)年に山陽皮革として設立された。
社長を務めた清兵衛は生産設備の近代化を推進し、需要が増大する陸軍に革製品を納めた。戦後は、流行した女性のロングブーツ用やバスケットボールシューズ用などの皮革を供給。今は紳士靴やかばん向けの皮革を生産する。
■アンビック
羊毛や化学繊維を圧縮して不織布を作るアンビック(姫路市)も創業時に清兵衛の支援を受けた。17(大正6)年に日本フエルト帽体として誕生。毛織物に向かない羊毛を日本毛織などから仕入れた。戦前は防寒用素材を陸軍に納めて業容を拡大。現在、世界で造られるピアノの半数以上で同社製の羊毛不織布が使われているという。走行時の振動音の防止材として自動車メーカーから引き合いが多い。2002年に日本毛織の子会社となった。
■バンドー化学
産業用ベルト大手、バンドー化学(神戸市中央区)の創業にも関与した。阪東直三郎が、機械の動力を伝える木綿製のベルトを発明し事業化を模索していたところ、清兵衛が資本金の4割を出して1906(明治39)年に阪東式調帯合資会社が発足。清兵衛の姻戚関係にある榎並充造が社長を務めた。
伝動ベルトは皮革製の高価な輸入品が主流だったが「安価な木綿製で産業界に役立ちたい」との挑戦だった。その後、ゴム製に転換したバンドーは現在、自動車や産業機械などに使われる産業用ベルトで高いシェアを握る。
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▼受け継がれる着実な社風
「歴史がある兵庫津と、欧米から新たな文物が到来する神戸港。この二つが混在する港町で、若くして旦那衆をまとめ上げ、力を合わせて事業を起こした。すごい男だ」。関西航空史料研究会の原田昌紀さん(78)=大阪府高槻市=は川西清兵衛の人物像をそう評する。
原田さんは、川西財閥の系譜を引く新明和工業のOBで、現役時代は飛行艇の設計を担当。清兵衛に関する本の出版を目指し、同会の碇(いかり)紀夫さん(80)=宝塚市=とともに調査を続ける。
大和製衡やデンソーテン、川西倉庫などの幹部から話を聞く中で、質素倹約と技術を重んじる社風を共通して感じた。清兵衛の実績にしては「知名度は高くない」といい「奇をてらわない着実な人柄で、派手さがなかったから」と捉える。
日本毛織が運営する商業施設「ニッケパークタウン」の一角には「一以貫之」と刻まれた碑が立つ。碇さんは「初志を大切にし、くじけない清兵衛の信念を、川西の系譜を引く各社は確かに受け継いでいる」と力を込める。
(長尾亮太)