新明和工業 編
(1)飛行艇・戦前 海軍の下、新型機次々開発
水しぶきを上げて海面を滑る飛行艇が宙に浮き、東の空へと消え入った。芦屋浜沖で年に数回見られる光景だ。新明和工業が、臨海部にある甲南工場(神戸市東灘区)の地先で行う試験飛行である。同社の代名詞といえる飛行艇のルーツは、この世に帝国主義が跋扈(ばっこ)した20世紀初めにまでさかのぼる。
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第1次世界大戦が終息しつつあった1918(大正7)年5月。日本毛織社長の川西清兵衛は、群馬の実業家と飛行機製作の会社を設立した。協力相手は中島知久平(ちくへい)。自動車メーカーのSUBARUの前身、中島飛行機の創業者である。
もともと中島の飛行機開発を資金面で支えてきたのは、神戸の米穀肥料商だった。ところが、経営に行き詰まり、清兵衛はその事業整理を引き受けた縁で中島の動きを知ったのだ。「これからは飛行機の時代だ」。大戦で初めて戦線に投入された飛行機が注目される中で、その好機を逃さなかった。
中島と意見が食い違い、わずか1年8カ月で決別したものの、群馬から引き揚げてきた若い技術者たちが「もう一度、飛行機をやらせてほしい」と清兵衛に懇願。20年、発足間もない川西機械製作所の倉庫で、飛行機づくりが始まった。
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赤字を出しながらも技術を磨き上げ、清兵衛は28(昭和3)年11月、川西機械の飛行機部を「川西航空機」として独立。翌月に海軍の指定工場となり、新たな大口納入先を手にした。海軍の要請に応じ、水上で発着できる機体を開発するため、海に面した西宮・鳴尾に本社工場を移した。当時は大型機の着陸に耐えられる「脚」の部品や滑走路の造成技術が未熟で、機体への負担が軽い水上での発着が求められたからだ。
胴体下部が船体となって水面に浮かぶ飛行艇に初めて携わったのは31年。海軍が英国から調達した機種の分解・組み立てを川西航空機が任されたのだ。このとき英国人から教わった技術が、後の飛行艇開発の礎となった。川西航空機は「九七式」「二式」と呼ばれる自社開発機を投入。長い航続距離と輸送力を生かし、南太平洋で偵察や兵士、物資の輸送に珍重された。
ところが、太平洋戦争で飛行艇の需要は縮小する。戦況悪化で本土攻撃の恐れが強まると、航続力の長さは意味をなさなくなった。「代わりに戦闘機が必要になる」と見定めた川西航空機は42年に「紫電」を、翌年には改良版の「紫電改」を生み出した。最新鋭の強力エンジンを載せたところ、高い性能を発揮した。零戦の後継機として海軍は国内で生産する戦闘機を紫電改に絞ったが、8月の終戦が迫るタイミングだった。
「年1、2機のハイペースで新型機を開発した戦時中は、飛行機製造の技術が目覚ましく進歩した」。飛行艇や戦闘機の主任設計者を務めた菊原静男は、戦後の後輩に向けた講義で胸を張った。ただ、送り出した機体は戦争に使われたため、表情はどこかもの悲しさを帯びていたという。
=敬称略=
(長尾亮太)