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春季キャンプで懸命にバットを振る坂口智隆外野手=2007年2月、宮古島
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春季キャンプで懸命にバットを振る坂口智隆外野手=2007年2月、宮古島

心身ともプロになりきれず

 2002年秋のドラフト会議で、坂口智隆(38)を栄えある1巡目に指名したのは近鉄だった。同期入団はほかに7選手。さぞ誇らしかったのではと思いながら、当時の胸の内を聞くと「同期のプレーを見て焦りました。みんなに負けていた。変化球とか見て驚いた。なんで俺が1巡目やねん」と返ってきた。

 一方、後にオリックスのコーチとして彼を指導することになる米村理(おさむ)さん(63)=現・ノースアジア大明桜高コーチ=は、2軍戦で見たこの新人外野手について「足が速く、一塁を回るときの加速がすごかった。バットコントロールも良い。さすがスカウトは見ている」と感じていた。

 素材に間違いはなかった。しかし、まだ体の線は細く、スイングも力強さを欠いた。2軍でこそ1年目から打率3割を超えたが、1軍ではさっぱり。1年目の03年はシーズン最終戦のプロ初安打1本だけ。2年目も7試合で4打数無安打に終わる。

 その04年は、近鉄とオリックスとの球団合併や球界再編問題で社会が騒然としたシーズンとなった。坂口は「どうなんねやろうという不安が強かった。でも意見できる立場ではなく、バタバタとしている間にオリックスの一員になっていた」と言う。

 オリックス1年目の05年は6試合に出場で6打数1安打。翌年も含め、プロ4年間で合わせてわずか4安打。恩師の神戸国際大付高・青木尚龍(よしろう)監督(58)はこの頃、坂口からよく「1試合で4打席くれたら絶対打てるのに」と聞かされたという。確かに4打席あれば投手の球に慣れるし、駆け引きの余地も生まれる。

 この話を本人にすると「『逃げ』ですよね。悔しかったら1打席で結果出せよ。そんだけの話」と話し、かつての自分を笑った。

 むしろ彼にとって苦痛だったのは年俸交渉だった。高校までは打って投げて、勝利を目指す仲間と野球を楽しめたが、プロでは自分に値段が付く。基準は1軍での活躍だ。

 「当たり前なんですけどね。フロントと『ここをもう少し評価してほしい』などと、自分で交渉しないといけない。野球は仕事なんだと思った。後にレギュラーを取ってからは比較的割り切れるようになったけど、それでも『楽しい野球』ではないですよね」

 心身ともに大人への脱皮を求められ、坂口はもがいていた。=一部、敬称略

【バックナンバー】
(2)原点。
(1)苦しくても。

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