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【上】神戸国際大付高時代の恩師青木尚龍監督(左)と談笑する坂口智隆さん=2022年10月26日、神戸市垂水区学が丘5、同校【下】2002年11月、近鉄バファローズに1巡目指名を受け、ガッツポーズで喜びを表す神戸国際大付高の坂口智隆選手=同校
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【上】神戸国際大付高時代の恩師青木尚龍監督(左)と談笑する坂口智隆さん=2022年10月26日、神戸市垂水区学が丘5、同校【下】2002年11月、近鉄バファローズに1巡目指名を受け、ガッツポーズで喜びを表す神戸国際大付高の坂口智隆選手=同校

頑張る力与えた母の手紙

 人より遠くへ打ち、速い球を投げる。昨年引退した元東京ヤクルトスワローズの坂口智隆(38)にとって、小学2年で始めた野球は純粋に楽しかった。うまくいかなくても解決法を考えて練習するのが面白く、のめり込んだという。

 恩師の神戸国際大付高・青木尚龍(よしろう)監督(58)は、初めて坂口を見た中学時代の印象を「野球をするのが大好きなヤツ」と話す。「次の動作が早い。守備ではすぐグラブをつけて走っていくし、塁に出たら走りたくて仕方がない感じだった」

 同校は今や甲子園大会の常連だが、当時はまだ出場経験がなかった。坂口は青木監督の熱意に加えて「プロ野球選手になるには目立つことが大事。そのために試合に出られそうな高校へ」と考え、進学を決めた。

 高校を出てプロに行けなかったら、野球を辞めてでも就職するつもりだった。大きな理由が両親の離婚。母子家庭となり、母に経済的負担はかけられない。「働ければ何でもいい。それまで好き勝手をさせてもらったので、自分の野球はそこで終わり」と決めていた。

 高校1年の秋、坂口は速球とスライダーを武器にエースとして活躍し、近畿大会4強へ。翌春の選抜大会初出場を果たす。しかし、2年生の夏と秋の大会は振るわず、冬を迎えた。冬は長い鍛錬の季節だ。最終学年を前に嫌いなトレーニングに身が入らず、何度も叱られた。

 青木監督が一番厳しく怒ったのは、最後の夏の大会直前のこと。原因は生活面の乱れ。このとき監督は坂口の母、一枝さん(71)から渡された手紙を見せた。

 そこには監督への感謝とともに、息子への思いがつづられていた。その頃、一枝さんはがんを患っていた。母親が無理をしないよう、照れながら気遣う息子に胸がいっぱいになったこと、自分も一緒に野球をしているつもりで洗濯などに励んできたこと。そして最後の夏、息子はすべてを出し尽くすはず-と結ばれていた。

 手紙を読んだ坂口は号泣した。信じてくれる人がいる。「常々『一人で野球をしているんじゃない』と言われてきたのが、頭の中でピタッとはまった」と振り返る。「自分のための野球に、周りの人のためが加わった」。監督も「大人になった。あいつの原点」と語る。

 迎えた兵庫大会は、強豪滝川第二を3安打完封するなど活躍。選抜大会覇者の報徳に屈したものの、準優勝を飾る。そして秋、念願のプロから指名を受ける。

=一部、敬称略=

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(1)苦しくても。

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