2001年7月21日夜。群衆雪崩が起きた明石歩道橋で難を逃れた明石市の女性(55)は、同行した子ども3人のうち、はぐれた長女=当時(6)=を必死で探していた。
いくつかの病院に連絡を取ると、ある病院で「集中治療室(ICU)にいる女児の下着に(長女の)名前が書いてある」という。長女は搬送時、心肺停止状態で意識がなく、身元が分からなかった。
間もなく意識は戻ったが、記憶喪失の状態で自分の名前しか言えなかった。入院4日目で「お兄ちゃんはどこいったん?」と周囲に尋ね、記憶を取り戻す。
翌年、長女と歩道橋を歩いたが「平気だよ」と長女。ただ、花火大会の記憶は「私は寝ていたから見ていない」と話した。女性は「もう大丈夫だと思いました」。
ところが昨年、アパレル系の仕事に就く長女が救急車で搬送された。体が硬直して意識を失ったという。「職場の繁忙期で人が混雑していたせい」と本人は説明したが、今でも長女は満員電車や混み合ったエレベーターには乗れない。
女性は「記憶の奥底に何かが残っていて、ちょっとした弾みに出てくるのだろうか」と思いを巡らす。
刻まれた恐怖の根深さを思った。
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県警が設置した会場の監視カメラの映像は、本当に録画されなかったのか。
花火大会があった、まつり2日目のモニター係だった元署員の70代の男性にも取材したが「そんな命令や機器の説明は受けていない」と繰り返した。
それでも一つの疑問が残る。録画されていないテープを証拠として提出していれば、争いの種にはならなかったはず-。遺族は「出さなかったのは録画していたからとしか思えない」と疑念を隠さない。
副署長に事故直後、ビデオテープを渡したと証言した元署員の男性(71)も「副署長はなぜ、テープの存在について話さなかったのだろうか」といぶかる。
神戸地検は2009年、副署長について4度目となる「不起訴」とした際、「モニター画像の録画自体がされていなかったことを確認した」と説明した。存在しないはずのテープの録画の有無をどう確かめたのかを聞くため、大阪府内の元地検幹部を訪ねたが「そういった取材は受けていない」。門前払いだった。
テープの存在は大きな謎としてくすぶり続ける。
「署長たちが罪に問われなかったことには今でも違和感を覚える」。こう明かしたのは地域課員だった70代の男性=神戸市。発生時に自分が取ったメモや事故に関する記事などを集めたスクラップブックを作り、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑の写真も収めた。
「犠牲になった方々にはただただおわびしかない」と、21日に先駆けて現場で手を合わせたという。
署長、副署長の2人に「罪」はあると思うかとの問いに「そらそうや」と語気を強めたのは、現場で雑踏対策に当たった播磨地域在住の元明石署員(74)。
「幹部なら全体を把握して、大変な現場に人を向かわせるのが仕事。それができてないんやから」
さらに続ける。
「あの事故で俺たちは状況報告書を一切書いてない。事故後の幹部会議でいろいろ繕うことを考えてたとしか思えない」と語った。
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一連の取材では明るい話題もあった。
犠牲になった草替律子さん=当時(71)=が身をていして救った神戸市西区の山下翔馬さんが今年20歳になった。
「おばあちゃんの命と引き換えに僕はここにいる」と話す翔馬さんに、草替さんの長男与志府さん(67)は「そう思ってくれるだけで十分。彼が彼なりにたくましく生きていく姿を遠くで見守りたい」とうれしそうに笑った。
事故から20年で変わったもの、変わっていないものに目をこらし、残された謎も追った。しかし、「伝え切れた」とは思えない。ただ「伝え続けよう」との気持ちは強くした。今後も取材は続けていく。(明石歩道橋事故取材班)
