1995年1月17日の阪神・淡路大震災当日、あなたはどこで、誰と被災しましたか? 震災直後の生活や、その後の暮らしへの影響を含めて尋ねたところ、400件近い回答が寄せられました。当時子どもだった人、働いていた人、子育てしていた人…。一人一人の震災体験がつづられています。その一部を抜粋してお届けします(漢字などを新聞表記に直したところがあります。住所は当時)。

東北でも影響が(当時43歳製造課長、東北の工場に勤務、男性)

 経験ないが、当日、明石から夜行列車で出張に来た人を戻す手配をした。仙台空港から岡山空港経由で。明石から車で迎えに来たと。

 両親が春日野道駅近くに住んでいたが、連絡ができず、テレビの画面から多分火災かなと推測。5日後、電話が通じ生存確認ができ、まずは安心。春日野小学校が支援センターだったようで、食品配給があり、両親は感謝していました。

 両親が戦争と地震を経験したが、あまり思い出したくないようなので、話題にしなかった。=坂上誠さん(現在70代)

長男が不登校に(当時33歳会社員、西宮市、女性)

 夫婦と長男の3人でした。初めに縦にドーンと突き上げるような、その後横揺れで長く揺れてて怖かったです。マンションでしたが全壊でした。また、家具はもちろん全て倒れ、食器もすべて割れて電子レンジなども端から端に飛んでました。玄関や窓が開かなくて、同じマンションの人たちが開けようとしてくれましたが、開かなくて、ガス臭がする中、3時間閉じ込められ、大家さんが安否確認に来てくださり、バールで窓を開けてくださり、外に出ることができました。近くの小学校に避難しました。

 その後、友達家族が呼んでくれて、1カ月ほどお世話になりました。電話も含めてライフライン全てダメだったから、沢山の友達が家に探しにきてくれたり、避難所など探し回ってくれたことを後から聞き、心から感謝でした。

 仕事に早く復帰したくて隣の市に仮住まいで引っ越したとあと、仮設住宅に入れたので、また引っ越したり、その後、今の家に入居しましたが、半年後に長男が小学校に入学直後に、震災などのPTSDで3年間、完全な不登校になり、カウンセリングに通い、4年生になって、やっと登校することができましたが、本当に大変でした。

 また私自身もPTSDでパニック障害になりました。本当に怖かったです。私自身はいまだにパニック障害が治っていません。お水や食べ物、携帯トイレや太陽光で充電できるライト付きで携帯も充電できる物など何かあった時のために用意しています。

 子供達とも南海トラフが起きた時に、お互いに避難場所を決めています。阪神淡路大震災から東日本大震災…など、頻繁に大きな地震が起きているので、不安になります。=ともシャンさん(現在60代)

避難者であふれる小学校のグラウンド=1995年1月17日、神戸市東灘区

灰が降ってきた(当時小学4年、神戸市垂水区、女性)

 戸建て。曽祖父、祖母、両親。大型トラックが衝突したのかと思うような衝撃でした。家は鉄筋コンクリート造りだったので、ヒビが入った程度。明治末生まれの曽祖父が、落ちてきたテレビを(高級品だからと思って)布団を被って必死に抱きしめていたのをハッキリ覚えています。須磨区との境の山の方から灰が降ってきていて、大人が「山の向こうの火事の灰や」と言っているのを聞いてすごく怖かったのを覚えています。

 近所の八百屋さんが青空市場を駐車場で開いてくれて、みんないっぱい買わないようにしながら買い物をしたのも印象的でした。六甲に住んでいた祖父母が被災して、家に来ていたのでしばらく7人で住んでいました。お風呂が使えない間は銭湯に行くのも人数が多いので、唯一車の運転ができた父が大変だったと思います。

 今でも震災当時の映像が流れると、当時の漠然とした不安が思い出されるのでチャンネルを変えます。二度と思い出したくないです。=yunaさん(現在40代)

22階から階段で上り下り(当時3歳9カ月、西宮市、男性)

 家族で公団のマンションで被災。幼くて揺れの大きさは覚えていないが、家族で布団に潜って必死に身を守った記憶がある。家は無事だったが、部屋の中は足の踏み場がないぐらいにぐちゃぐちゃになって何が起こったのか全く分からなかった。リビングに行くとテレビが反対側の壁まで飛んでいてびっくりした。あとは大切にしていたヘリコプターのおもちゃが真っ二つに壊れていて、大変なことが起こったということを幼いながらに感じたことを覚えている。

 水が使えなかったようで、毎日近くの学校へ取りに行くのが日課になった。震災後数日はエレベーターが使えず、22階から階段で上り下りしたのを覚えている。幼いので細かくは覚えていないが、生活をする上で両親が私自身の不自由ができるだけないようにしてくれていたんだと思う。

 現在教員として働いているが、もし学校にいるときに被災したらということはことあるごとに考えている。経験したくはないことではあるが、身をもって経験したことは今後の人生には生きてくる出来事だった。=やすさん(現在30代)

不眠や悪夢に苦しんだ(当時24歳カラオケ喫茶アルバイト、西宮市仁川、男性)

 一戸建て実家にて両親、弟妹、妹の友人と被災しました。2階建ての家でした。柱の倒壊はかろうじて免れましたが壁は崩壊、全壊判定でした。その家に引っ越しして1カ月目ちょうどで、やっと家具や身の回りの開梱が終わりほっとした矢先、一瞬にして家具、家電が転倒しました。私は二階の部屋でした。夜中3時過ぎに就寝したのですが、その日はやけに肌寒く、厚着をして寝たのを覚えています。ウトウトしながら遠くでカンカンと金属がぶつかる音を覚えています。今思えば最初の揺れで近くのクレーンが振られて鳴らしていたのかと思われます。

 最初の縦揺れでスプリングベッドに寝ていた私はかなりの高さまではね上げられました。頭上に物干しで冬物の服を掛けていたのですがはね上げられた際にその冬物服にぶつかり、一緒にベッドに落下、頭が厚手の服たちに埋もれた為、崩れてきた壁や天板でけがをしなくてすみました。両親は当時、引き出しタンスの上に29インチのブラウン管テレビを置いていたのですが、寝ている頭近くにそのテレビが降ってきて、ギリギリ当たらなかったので命拾いしました。

 弟は部屋の引き戸が圧でゆがんでしまい部屋から出す為に扉を蹴りやぶりました。妹の部屋は窓のアルミサッシが窓枠、ガラスとも外に吹き飛んで最後までみつかりませんでした。玄関に設置していた熱帯魚水槽が重みで据え付け靴箱を破壊して落下し、靴が全て水浸しの上ガラスの破片まみれになっておりましたが、急ぎ外に出るためにそれらを履いた為、私は数日、足の裏に2cm程の長さのガラス破片が刺さり込んでいました。

 震度7地域だった為、近所で生き埋めが多数起きており、私は6:00にはその手助けを呼び集める方の応援にかけつけました。両親、弟妹は当時大阪にあった事務所マンションに避難し、私は友人宅に寝泊まりさせてもらいながら被災地の友人、知人の安否確認をしていました。

 震災時に生き埋めやご遺体に触れる事がかなりあり、震災後3カ月ほどでPTSDを発症し不眠や悪夢、激しい動悸(どうき)、急に涙があふれてくる等の症状を経た後、きついパニック障害で6年間は全く普通の生活ができませんでした。その後パニック障害となんとか付き合いながら生きていますが、今でもこの時期になると発作が起きやすくなります。人生を大きく変えられてしまいました。しかしこの経験のおかげであまり物事に動じなくなれた気がします。=岩崎俊之さん(現在50代)

ビルの解体が進む街で通勤を急ぐサ人たち=神戸市中央区

大阪まで通勤6時間(当時39歳会社員、神戸市西区、男性)

 戸建て、木造2階て。柱ずれ、瓦ずれ、水道破裂。簡易水道のため断水なし。食料は加古川方面で調達できた。大阪までの通勤で6時間以上かかり、JR、阪急およびバスの乗り継ぎ、また、交通不通区間は、徒歩によるもので、かなり辛いものでした。家は1000万以下で修復でき、負担は大きかったが、農業兼業のため食べ物にも不自由を感じない。ほかの都心部の方とは相いれない恵まれたものでしたので、生活にはまだ余力あったかと思います。=つぎやんさん(現在60代)

体に染みるほどおいしかった(当時21歳消防士、神戸市西区、男性)

 西区の実家で家族と被災。一戸建て。家具が倒れてきた。一部損壊。すぐに所属の消防署へ出勤。長田区の火災現場に行った。昼夜問わず放水し消火活動と救助活動。真夜中に放水中、被災した現地の方が「あんたらも寒いやろ。これ飲み。」と言って、自ら被災しているにもかかわらず、温かい飲み物を提供してくださいました。朝から何も口にしていなかったので、ありがたかったです。体に染みるほどおいしかった。心と体も温まり、現場活動ができました。

 水道がなかなか復旧せず水に困った。高速道路、電車も不通のため、移動に困った。普通の生活のありがたみを感じた。=RPS13さん(現在50代)

時が過ぎるほどつらかった(当時36歳、神戸市兵庫区、女性)

 平成元年に購入した新築戸建で、夫、小3長女、小1長男の家族4人で被災。全員、2階で寝てて、飛行機が落ちたのかと思うぐらいの地響きで目が覚める。1階の水槽含め、ありとあらゆる家具が倒れる。家自体はつぶれることはなかったが、その日の16時ごろに火が回ってきて全焼する。

 いったん、長田の山側の知合い宅に避難させてもらい、私だけ家に戻って一人で荷物を出す。結婚式の紙袋6個分ぐらいの荷物を徒歩で無事だった実家まで運び出す。夕方の延焼後、その知り合い宅で1泊させてもらい、翌日、三田の姉宅に車で避難。渋滞で夜中に到着。2週間ほど滞在し、夫、私、母は、父が残ってた兵庫区の実家に戻る。

 子供達は、姉宅で三田の小学校へ疎開。3月に兵庫区へ戻る。着るものから全て、焼けてしまい、新築の住宅ローンだけが残った。しかし、家族全員、無事だったことに感謝して生きていかないといけないと、言い聞かせる毎日だった。初めの頃はこの経験で、戦時中のことを少しは感じられたのかと思ったが、戦争は、周り全てが焼け野原だが、震災は全壊の人と大丈夫だった人の差が大きく、時が過ぎるほどつらかった。=にゃんこさん(現在60代)

急ピッチで建設が進んだ仮設住宅=1995年6月、神戸市中央区

避難所で食べたりんご(当時高校2年、神戸市須磨区、40代)

 14階建てのマンションの4階で、家族(父母姉私)4人で被災しました。自分は寝ていたので正直何が起こったのかわからず、寝ぼけながらベッドの上で天井を見ており、ジェットコースターに乗っている体感でした。マンションは、階によっても揺れの大きさが違ったりようで、上層階は天井の照明器具が落ちたり、私たちの低層階では、共用部分の廊下の壁が鉄筋が見えるくらい崩れていたり、建物自体は半壊の通知がきました。

 自宅周辺は幸いにも火災は起こらず、板宿周辺だったため、南側の大田町や新長田周辺の火災の煙がずっと見えており、昼間、太陽が出ていたのに、煙が光を覆って不気味だった記憶はあります。揺れがおさまってから、母親がみんなの靴を玄関まで取りに行き、自分の荷物をまとめて厚着をして帽子をかぶり、近くの避難所(小学校)まで家族みんなで行きましたが、父親はサービス業をしていたので、その後、歩いて出勤していきました。

 避難所で困ったことはトイレでした。水が出ない間は、何重にも重ねたゴミ袋が便器代わり。その内、トイレに行くのが嫌になり、1週間近く排便がない時もありました。地震後、最初に避難所で食べたりんごを今でも覚えています。夕方から夜くらいに食べた記憶があります。避難所には1週間程度、ガスと電気が復旧してから自宅に戻りましたが、水の復旧がまだで学校も始まっていたのでお風呂に困りました。近所の銭湯は15時くらいで閉まるので、帰宅後間に合わない事も。友達の家や知り合いの家で何回か入らせてもらいました。

 東日本大震災を東京で経験した時は、阪神淡路大震災の教訓を活かす事ができ、無駄ではなかったと思います。当たり前が一番幸せを時たまかみしめています。=はなびさん(現在40代)

同級生の死(当時中学1年、芦屋市、女性)

 山手にあるマンションの4階、家族で住んでいました。姉妹で隣同士で寝ているとき、地震が発生。たんすの上に置いてあった、ガラスケース入りの市松人形が降ってきました。家の中全体、全方向から物が割れる音、ぶつかる音、ガシャガシャという音に囲まれて、叫び声もかき消されるほどでした。

 縦揺れか横揺れかもわからず、地面が揺れるのが地震ですが、家全体が揺さぶられシャッフルされる印象でした。暗くて足元もまともに見えない状況で、はいながら、布団から抜け出したので当然はだし。台所の食器棚は倒れ、中から食器が飛び出し散乱しておりました。(親が言うには、良い食器はことごとく割れたのに、もらい物のチェーン店の食器は無事だったそうです)。

 リビングの向こう、和室より両親の「大丈夫か!」との叫び声と名前を呼ぶ声を聴いて安心。自室から台所を経由して、リビングの向こうへ向かう中、折り重なる家具やがれきの上を避けたりして渡っていくのですが、私自身は奇跡的に手も素足も無傷。妹は足を少し負傷したようでした。和室に到着してからは、全員無事を確認し、固まっていたように思います。直後の記憶がそこから途切れました。

 突然のことに、恐怖というより、何が起こったのかの疑問だらけでした。経験がなく、この先何が起こるのか、どうすればいいのか分からない分、恐怖も不安も感じようがない状況でした。明るくなってから、部屋の様子を見ましたら、重いテレビがテレビ台から落ちている、食器棚が倒れる、片付けようもない状況に脅威とともにあぜんとしました。

神戸大橋から見た兵庫区、長田区などの火災=17日午後

 両親は、この部屋は住めるのか、片付けるにもどこから、情報収集は、そもそもここにいて良いのかとおそらく発狂しそうだったと思います。(ぼうぜんとしながらも、次の手を考えなくてはならない親の責任の重さと、未知の事態への対処方法に)。父親はラジオの無い中、まずマンションの屋上に行ったようです。目視できる情報収集で、眼下に広がる街並み、そのところどころで煙が上がるのが見え、事態の深刻さを目の当たりにしたそうです。

 次に小学校での情報収集を思い立ち、家族全員で一度小学校に行くことになりました。小学校は通電していたようで、校庭にはすでに人がまばらにいました。誰かが窓を開けたのか、教室内にあるテレビがつけられ、校庭から窓枠越しにテレビを見ました。それが公共電波で拾えた、はじめての震災の情報です。学校にいけば情報が得られるというのは心強いと思います。大変なことが起こったのだとぼんやりとテレビを眺めて、何となく実感が出てきました。

 その後、家に戻り、カバンに入る分だけ荷物をまとめて小学校の体育館へ避難しました。何を持っていきなさいという指示は覚えていません。

 ただ、当時手元にあった携帯音楽プレーヤーはカバンに入れました。それは正解でした。避難所では娯楽に乏しいので、携帯音楽プレーヤーをひたすらリピートで聞いていました。耳をふさいでいる時間が長いのが良いのか、ストレス軽減にはなったかと思います。

 娯楽系ならば折り紙・紙とペン・いまはスマホ時代なのでモバイル充電・本(図鑑など?)手元で遊べるもの。運動不足になりがちなら、なわとびなど軽量コンパクトで周囲に迷惑かかりづらく、良いかもしれないです。

 困ったことは、雑魚寝でプライバシーがないこと。今の時代は昔以上にプライバシー保護の必要性がありますし、一番怖いのがスマホ。スマホで盗撮などもあり得ると考えると、より厳重にプライベートスペースの確保や視界の遮断が必要かと思います。私は当時まだ子供だったので、他人への警戒心もほぼ皆無でした。

 わが子のことや、大人の目線で考えると、性被害はいつあってもおかしくない状況で、盗撮も十分起こり得る環境です。子ども連れ、妊婦、乳幼児を抱えた親への配慮は、高齢化社会で大人の割合が増えた今だからこそ(子供の比率が低い分、子どもへ我慢や配慮を強いる場面が増えそう)一番考えていただきたいです。

 あとは、トイレがとにかく不衛生。汚物と消毒液の混じり合ったにおいは今でも忘れません。お風呂がなかったことも厳しかったです。まだ真冬なのでギリギリ耐えられました。自宅に戻ってから、バケツにためた水で体を拭きました。かすかに気持ちよくはなりますが、その時のなんとも言えないにおい(においというほどまでは無いものの)覚えています。

 ありがたかったのは、飢えを感じなかったことです。パンやおにぎりは早々に配られ、少ししてから缶詰も入り口近くの置き場に並ぶようになりました。自衛隊の缶詰なのか、絵も写真もない缶詰は物珍しかった思い出があります。欲を言えば、フリーズドライでもいいので、繊維質のあるもの温かいものがもらえればなお助かります。

 避難所で数日間だったと思いますが、体育館暮らしをしました。学生だったので、何も考えず、学校も休みなのでその点も気楽だったと思います。体育館で誰かが入手した新聞紙を、回し読みしました。細かい内容は読めませんでしたが、見出しに出る死者数なり、被害者数か被災した建物か数がどんどん、日増しに増えていくのが恐怖でした。新聞で報道される時期になって初めて、事態の重大さと恐怖を感じました。

 そこからは、体育館全体がきしむような余震、ひっきりなしに起こる揺れのたびに、体が硬直し、すくみ警戒態勢に入ります。余震のたびに、地震発生時の恐怖が思い出され再現されるのでしょうね。フラッシュバックを強制的に引き出されるようです。

 その後数年、ささいな揺れにも敏感になり、窓枠が揺れるたびに緊張感が走るようになりました。そのせいでしょうか、自分自身は悲惨な経験も無慈悲で残酷な光景を目の当たりにしていないですが、焼け野原や家屋が崩壊した映像を見ると(震災でも戦争でも)、意図せず涙が止まらなくなります。

 学校生活は、身の回りでは震災前日に会話したひとりの同級生が亡くなりました。人生で初めて、身の回りで死を感じた瞬間でした。ある日、昨日までいた、話した、そこにあった存在が、ふっと消失するのです。死とは消失感なのだと理解しました。

 震災があったから人生が変わった。教訓を得たなどというものはありません。ただ、備えは必要だと、記憶の中にかすかに残る情景を頼りに、有事の際に必要なものを厳選して備えることは努めています。物を備え、心理的にも心づもりをすること(離れていても迎えに行くという不安を軽減させるように)。いまこの部屋で、いまこの登下校中に、この瞬間に地震が発生したらどうする? どう動く? それは、震災の話になるたびに、家族で話し合うようにはしています。

 天災には逆らえない。いくら準備しても、家自体がつぶれてしまったら、準備したものも使えないかもしれない。そもそも被害にあうのは自宅とも限らない。どこまでいっても絶対の安心はないですが、有事の際のわずかな可能性のために、備えることはしています。=MRMさん(現在40代)