1995年1月17日の阪神・淡路大震災当日、あなたはどこで、誰と被災しましたか? 震災直後の生活や、その後の暮らしへの影響を含めて尋ねたところ、400近い回答が寄せられました。当時子どもだった人、働いていた人、子育てしていた人…。一人一人の震災体験がつづられています。その一部を抜粋してお届けします(漢字などを新聞表記に直したところがあります。住所は当時)。
■忘れられないハンバーグ(当時小学5年、神戸市中央区、女性)
自宅。長屋。半壊。家族と一緒。当日は、近くのお寺で一夜過ごしました。2日目は、小学校体育館。3日目は、中学校。困ったことは、たくさんあります。食べるもの。お風呂。もし地震が来たらどうしようか、と1人になる(トイレなど)ことへの恐怖心。1週間後に母方の親戚宅へ避難した。久しぶりに食べた、ハンバーグや温かいご飯を食べて泣いた。毎年、あの頃の生活や状況を思い出す。30年たっても鮮明に覚えている。=みゆきさん(現在40代)
■電車が緊急停車(当時24歳会社員、尼崎市、女性)
JRの電車の中。先頭車両尼崎駅東側ヤンマーの辺りで緊急停車。約1時間車内で揺れつづけ線路を歩いて避難した。揺れながら、真っ暗な中、空が稲光で雷? と乗客みんなでおびえた。友人の叔父宅が阪神競馬場の近くで、一時避難させてもらったけど、お風呂に水をためておられたので今思えば良い事だと実感した。
震災半年後に姫路の百貨店に転職。大丸やそごうが大変だった時、姫路の百貨店は震災特需、大変忙しかった。新聞やテレビの出来事はひとごとではない、明日はわが身といろんな場面で癖のように思うようになった。=あこさん(現在50代)
■涙が止まらなくなった(当時23歳、神戸市東灘区、女性)
須磨区の実家に避難。地震によるPTSDで思うように体がうごかなくなったことと、わずかな余震でも涙が出て止まらなくなった。明日が今日と同じではない。人に優しく、災害に備える心構えと心と物品の準備。=たまきさん(現在50代)
■自衛官の父の姿(当時中学3年、姫路市、女性)
一軒家の自宅で家族と寝ていた。姫路市内は大きな被害はなかったが、それでも下からつきあげるような強い揺れがあった。けっこう長く感じた。タンスの上に置いていた物が落ちてきたり、家具が少し倒れていた。父が自衛官だったので震災当日から神戸に入り10日程戻ってこなかった。
阪神大震災を契機に自衛隊に対する世間の目が変わったと身をもって感じた。それまでは自衛隊に対して心ないことを言われることがしばしばあった。中学校が姫路の自衛隊の駐屯地の隣にあったのでしばらくは支援物資を運ぶヘリやトラックがひっきりなしに出入りしていた。その音はかなり大きかった。
当時は関西に大きな地震は起きないとみんな思っていたが、いつどこで起きてもおかしくないと思うようになった。=匿名(現在40代)
■足を挟まれた(当時21歳、西宮市、男性)
日本酒メーカーにて泊まり勤務をしていました。震災発災時は、社員が少し起きており作業の打ち合わせを布団の中でしている時に、「ゴーーーっ」と音が気になり、「大きな車が通らんのに」と思った瞬間に、大きな横揺れと縦揺れに襲われ、江戸時代から立っている建物なので屋根部分がわれわれのとこに落ちてきました。足を挟まれました。救出されてからけがした部分を自分で手当てしてそのまま地域住民の救助に出ました。また地方からの出稼ぎで来ていた蔵人と管理者は社内確認を行っていたと思います。
日本酒メーカーなので水・米・醸造アルコール・酒かすなどがあったのでけがを負った社員、住民への手当て、食事については何とかなりました。夜勤者用の食事の残りもあり、特に食事に困った記憶はありません。震災後の復興も進んだ頃に会社から「早期退職」を言われ退職しました。震災が無ければ日本酒作りをしていましたが…。当たり前の事が当たり前でなくなった事への学びと命を守る難しさ。=かつひこさん(現在50代)
■明日生きているとは限らない(当時25歳、神戸市西区、女性)
父所有の一軒家、4人暮らし。西区なので揺れはすごかったですが、損傷はなし。皆さんがおっしゃるように、地鳴りがして目が覚めたら下から突き上げられ、大地震とすぐに分かりましたが、箱の中に入れられて揺らされるような状態でとりあえず、掃き出し窓を開けて逃げ道の確保をした後、妹の部屋に向かいました。
西区は、揺れたものの、火災も、ご近所の倒壊もなく、いつも通り出勤しようとしたら、地下鉄が止まっていたので引き返しました。会社への電話がつながらず、数日は家で待機していたら会社から「無理のない範囲で出勤するように」と言われ、地下鉄が復旧したのを機に、三宮へ出勤しました。忘れられない記憶となりました。
小さな地震でも、必要以上に恐怖を感じるようになりました。「明日、生きているとは限らない」という悟りを得ました。忘れられない恐怖です。二度と体験したくありませんし、世界中でも起きてほしくありません。=けむけむさん(現在50代)
■信号が消えた交差点(当時35歳会社員、神戸市須磨区、男性)
マンション5階、妻、娘(4歳)、双子の息子(1歳)。ジェットコースターに乗った時のような揺れ。畳の下の床、壁に亀裂が入り、半壊判定。食器棚の食器が落ちて割れた。
水:マンションの水道タンクが空になるまで数時間は使えた。電気:停電になったが復旧はその日のうち? だったと思う。ガス:止まることなく使えた。余震が続いていたため、よちよち歩きの双子の息子と娘をいつでも連れ出せられるように、1週間、服を着たまま寝た。夜になるのが非常に不安だった。
西神に行くことがあったが、当時のダイエーには普通に物が売られており、少し離れただけでこうも違うのかとがくぜんとした。大阪への通勤が三田経由となった。三田まで車で行ってそこからJR。そのうち阪急、JRが部分開通して行き、乗り継ぎしながら通勤した。
当時、信号が消えていた交差点でも、みんながゆずり合いの心があって自己中心な人はいなかった。ギスギスした世の中だったけど、捨てたものじゃあないと感じた。譲り合う気持ちはいつまでも忘れないようにしている。=としとしさん(現在60代)
■思いやりを学んだ(当時19歳フリーター、神戸市兵庫区、女性)
マンション5階、母、姉、祖母、犬。ものすごい横揺れ。ゴジラにマンションをつかまれて揺さぶられるかのよう。マンションが絶対倒れたと思ったら、倒れてないことに驚いた。台所は食器が割れまくってぐちゃぐちゃ。ふすまが外れる。ブラウン管の大きいテレビが消えながら真横に3メートルくらい飛んでいったとこを見た。
周りの文化住宅は2階が一階になり全壊でした。避難所には居場所がなく、暗い寒い自宅にいるしかなかった。トイレもビニールにしたり、ゴミも回収もなく、水もくみにいかないとない。個人のお宅が水を開放してくれており、食器とか洗わせてもらい助かった。家は壊れなかったので、家がつぶれた人が気の毒で、我慢しようと思った。すぐ公園に避難した時、誰かがカーテンを持ってきてくれ、祖母に巻いた。優しい人が多かった。
仕事場がつぶれて自宅待機だった。水道が長いことでなかった。電気の復興はまだ早かった。テレビで高速道路が倒れているのを見て驚いた。北区や大阪は普通に日常生活ができていることに驚いた。犬の散歩したり新春セールをしていたり。人はいつ死ぬかわからない。極限の状態でも人間は立ち上がる。たくましい。思いやり、助け合いなどたくさんのことを学んだ。=えびさん(現在40代)
■停電復旧作業に従事(当時46歳関電係長、淡路市、男性)
淡路市大磯2階。当日の8時ごろ兵庫営業所に到着しました。150名中30名位出勤していて、それから1週間24時間体制で停電復旧をしていました。関電は、段取り良くその日のうちに布団、弁当の段取りを本社からしてくれ、2カ月間弁当が奈良の仕出屋さんなどから海を渡って届きました。この会社で良かったとありがたく感じました。
2週間目からは深夜班を1班にし残りの全班を昼間にシフトし、朝4時に作業指示をし、夜明けには第1現場に着く作業を続けました。防災意識が高まり、町内会の役員表などにも災害時の役割分担を決めた。=gaisiさん(現在70代)
■揺れで破水した(35歳妊婦、明石市、女性)
マンションの8階、主人と娘2人の4人。揺れは、さほど長くは感じませんでしたが、タンスの上の段ボールが寝ていた足元に落ちてきました。家の中も、さほど被害はなかったようですが、マンションの壁にヒビが入り、地下ガレージのシャッターが開きませんでした。
この揺れで破水して、そちらの方が大変で家の様子は良く覚えていません。すぐに病院にいきたかったのですが、車が出せない状況だったので、歩いて20分くらいの妹の家まで歩いて行きました。その間、家々の瓦が落ちていたりしたのを見ました。
8時過ぎに、ガレージが開いたので、主人の運転で二見の方の病院までいきましたが、当直の看護師さんしかおらず、その方も帰れず、小学校1年の娘さんが来ていました。この夜勤の看護師さんがとても良くしてくれて、ありがたかったです。水が要るから買ってきて! と叫ぶ声を何度か聞きました。
また、主人は、被災状況や神戸の親戚の安否確認で、すぐに帰ったので、一人で心細かったけど、同じ妊婦の当時は見知らぬご主人が、陣痛で苦しむ私の背中をさすってくださったことが、ありがたかったです。いつも満員の待合室の病院ですが、その日は患者さんは来ず、次の日須磨や垂水の方から紹介状を持った妊婦さんが、ご夫婦で来られて待合室が満員電車状態でした。
教育現場に復帰してからは、命を守ることが最優先だと思うようになりました。とにかく、普通に暮らせる事の幸せを感じる事が大切だと思うようになりました。=もったいない母さん(現在60代)