留学先のアフリカ・ウガンダから帰国後、舞子高校環境防災科の恩師である諏訪清二先生が声をかけてくださり、先輩の「美幸さん」と3人で東北の地を初めて訪ねた。
東日本大震災から1年がたった頃だった。
諏訪先生が、レンタカーで被災した町を案内してくださったが、目の前に広がる町の姿は言葉を失うものだった。カーナビから案内されるのは確かにそこにあった店や駅だが、目の前にはがれきが広がり、元々の町並みを想像するには難しすぎた。
この町を見た時に思った。「何かしたいと思っていたけど、実際に東北に来ても何もできない」
とにかく東北に訪れたいという思いが強くあったものの、自分の無力さを感じた。
阪神・淡路大震災当時の記憶が鮮明にない私は、兵庫もこんな状況だったのかもしれないと想像しながら、東北の町を見ていた。
そんな中、諏訪先生が、岩手県釜石市立釜石東中学校の副校長(当時)の村上洋子先生に会わせたいと場をつくってくださった。
村上先生は、同県陸前高田市にあった自宅が津波に流されたこと、当日は中学校の生徒たちと一緒に高台に避難し、命を助けることができたこと、そのことが後に「釜石の出来事」として知られるようになったこと-などを聞かせてくださった。
それは当時、「奇跡」だと捉えられた出来事だったが、決して奇跡ではなく、普段からの防災に対する向き合い方があってこその出来事だったのだと感じた。
村上先生はまた、震災後に不登校になったり、授業に出られなかったりする子どもがいる中で、阪神・淡路を経験した私たちの気持ちを知りたいと言ってくださった。
私は、震災後どんな感情だったのかや、学校の先生が掛けてくれた言葉、向き合い方などを伝えた。
続いて、私が「今の私に何ができるのか?」を村上先生に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「汀さんがこうやって元気な姿を見せてくれるだけで元気をもらえる。震災から18年になる頃には、自分たちもこうなれるんだと希望をもらえる。来てくれるだけで良いんだよ」
思わず涙があふれた。何かしなければ、何ができるのかばかりに悩んでいた。そうではなく、自分自身が阪神・淡路大震災後にやってもらってうれしかったことを返していこう、と心に決めた。
東日本大震災があるまで知らなかった東北が、私にとっての「第二の故郷」と思える場所になるとは思ってもみなかった。それぐらい大好きなまちになるきっかけが、この訪問だった。(小島 汀)