阪神・淡路大震災の発生から2年後の1997年に生まれ、奈良県で育った私にとって、震災は遠い存在だった。記者となってから改めて学び直して遺族から話を聞き、防災イベントや追悼式典にも参加することで少しずつ身近なものとなった。それでも「自分事」にはなっていなかったと、昨年気付かされた。

 2024年8月、宮崎県南部で震度6弱の地震が起き、直後に国は「南海トラフ地震臨時情報」を初めて発表。連日、南海トラフ巨大地震の被害想定や注意喚起のニュースが飛び交った。放置していた防災バッグの中身を慌てて見直し、深夜まで避難の経路や場所を確認していた時、ある遺族の言葉を思い出した。

竹灯籠の前で手を合わせる人たち=2025年1月17日午前5時46分、神戸市中央区、東遊園地

 「私たちの話を『かわいそう』だけで終わらせてほしくない」

 当時は「しっかりと次の世代に伝えてほしい」と理解していたが、少し考えが変わった。記事を読んだ人に「自分がもし同じ状況になったら」と、考えを巡らせてもらうことを望んでいたのではないか。その時初めて、これまで聞いてきた全ての話が自分事になった感覚があった。

 震災から30年が経過し、「風化」が最大の課題となっている。経験した世代が身近にいる間に、記憶や思いを記録して伝えるだけでなく、経験していない人たちが震災を自分事として考えられるかが鍵になっている。当たり前のことだと思われるかもしれないが、気付いていない人は多いのではないか。

南海トラフ地震臨時情報が発表されていることを表示する甲子園の電光掲示板=西宮市

 ただ、例えば80年以上前の戦争を自分事として捉えづらいように、時間が経過すればするほど自分事にするのは難しくなっていく。震災を経験していない記者として、できることは何か。遺族たちの言葉を「かわいそう」で終わらせないために、考え続けたい。(村上貴浩)