毎年、1月17日には必ず神戸・三宮の東遊園地へ足を運ぶ。「神戸レインボーハウス」や舞子高校環境防災科の仲間など、これまで関わってきた大切な人たちと再会する場所だ。
東遊園地の「慰霊と復興のモニュメント」に父の名前が刻まれたのは2009年12月。阪神・淡路大震災から15年の時だった。
私たち家族は芦屋市で被災したため、父の名前はもともとモニュメントになかった。それでも当時から、父を追悼するため東遊園地を訪れてくださる方がいた。また、レインボーハウスの友だちのお父さんやお母さんの名前と一緒に、父の名前を刻んであげたいという思いもあり、母と相談して決めたことだった。
父の名前が入った銘板を加える日、高校3年だった私は「取材NG」の印のリボンを付け、式典に参加した。それでも記者の皆さんに取材を依頼された。
これまで、私のことを多くのマスコミの方々が取り上げ、発信してくださったことで、私を応援してくださる方々がいるということは分かっていた。
ただ、当時の私は「マスコミ」という存在が本当に重荷だった。特に、舞子高校環境防災科に進学後、「父を亡くした子が防災を学んでいる」というふうに取り上げられることが目立った。伝えたい感情を違う言葉で発信されたり、事実とは異なることを伝えられたりし、なんとも言えない思いになることがあった。
そして、節目である15年だからと報道が盛り上がる現実に、「私たちには節目がどうかなんて関係ない。毎年大事なんだ」という思いでいた。そんな感情も、レインボーハウスの友だちには、はき出すことができ、そのたびに救われた。
この頃、私は「震災を伝えないといけない」という使命感が先行していることに気が付いた。自分の感情が追い付いていないことに、ハッとさせられることがあった。
それまでは、取材の依頼はほぼ受けていたが、大学進学後は、自分が語りたいと思った時に発信しようと心に決めた。
ただ、そんな葛藤の中にいる時も、向き合ってくださるマスコミの方との出会いがあった。レインボーハウスに何度も足を運び、熱いお手紙を届け、感情を動かしてくださったテレビ局の人たち。いつしかディレクター、カメラマン、マイク担当の3人と、実家で夕食を囲む関係になった。
欠かせないのは神戸新聞の記者さんの存在だった。記事を書きたいという目的以上に、私の素直な感情を受け止めたい、まっすぐな言葉をそのまま届けたいという姿勢に救われた。同じ目線で伝えていきたい、という思いを感じた。
今回の手記も、私が「本を書きたい」と、唐突に相談したことがきっかけだった。その思いを受け止め、手記の執筆を提案された。その記者さんとは、会うたびにプロ野球阪神タイガースの話題で盛り上がり、私にとっては記者と取材相手という垣根を超えて「阪神仲間」でもあると思っている。(小島 汀)