阪神・淡路大震災で亡くなった父は、プロ野球阪神タイガースの大ファンだった。
家のテレビにはいつも阪神戦が流れていて、私たちきょうだいを甲子園球場へ連れていってくれた。
そんな父の背中を追うように、私も大の阪神タイガースファンとなり、シーズン中は甲子園の一塁アルプスで応援している。「パワースポット」といえば、甲子園球場と言えるぐらい、自分を支える場所になっている。
私がこれほどまで阪神タイガースに没頭するようになったのは、2002年4月、当時監督だった星野仙一さんとの出会いがきっかけだった。
星野さんは、震災遺児である私たちを甲子園球場に招待してくださった。また、シーズン中には「あしなが育英会」のステッカーをヘルメットに貼ってくださっていた。
ある日、あしなが育英会の職員の先生に「みーちゃんのお父さんは、阪神ファンだったよね」と声をかけられた。ふと、父が残した縦じまの阪神タイガースの帽子が家にあったことを思い出し、「お父さんの帽子があるから持っていこうかな」と言った。
その一言から、星野さんの前で、遺児を代表してあいさつをすることになった。当時小学5年だった私にとって、人前に立つという経験は初めてだった。
引っ込み思案な性格で、人の後ろに隠れているような子だった。この頃はまだ、阪神タイガースに興味があったわけではない。しかし、「このような機会はない」と考え、父の縦じまの帽子をかぶり、あいさつをさせていただいた。
今でも覚えているぐらいの緊張状態の中、星野さんへお礼を伝えた。とても背が大きくて、笑顔がすてきで、あたたかくて、その人柄にとても心を動かされた。
そして、あいさつの後、星野さんは「僕も生まれる前に父を亡くした。負けるな。勇気を持って前に進もう」と、私たちへ力強くエールを送ってくださった。
こんなにも偉大な方だけど、同じようにお父さんがいない中、生きてこられたんだ。そして、同じ境遇の私たちを勇気づけてくださる。その思いがとてもうれしく、感動した。
いつか私もこんな風に元気を届けられる人になりたいと思った。
それから私は、星野さん、そして阪神タイガースの大ファンになり、毎日試合が始まる時間にはテレビの前でユニホームを着て、応援バットを片手に観戦するようになった。
父と同じ趣味に没頭できていることが、なんだかうれしい気持ちだった。甲子園球場では、大声で応援し、ハイタッチをしたり、六甲おろしを歌ったり、多くの人と感情を分かち合えることの楽しさを教えてもらった。
星野さんとの出会いが私の人生のターニングポイントとなった。星野さんは私の人生を照らしてくださった、永遠の恩師であり、心から感謝している。(小島 汀)