中学1年の頃、「あしなが育英会」から、中国・天津への船旅を提案された。

 神戸で防災を専門にされている先生や、新設された兵庫県立舞子高校(神戸市垂水区学が丘3)の環境防災科1期生の先輩たちと一緒に、地震の被災地を訪れるというプログラムだった。

 帰りの船で、舞子高校の先輩である「美幸さん」から「汀、環防(環境防災科)おいでや。私も震災に向き合うことをしたくなかった。でも少しでも知りたいと思うなら、進路の選択肢として考えてみたらいいで。震災のことばっか学ぶからしんどいけどな」と声をかけてもらった。

 先輩も、震災でお母さんを亡くされていて、どこか同じ思いを共有できる安心感があった。

 そして震災の記憶がほぼない自分にとって、震災や防災を学ぶことができる学科があることを知り、少し不安もあったが、記憶のない震災に対して興味を持つきっかけとなった。

 その後、受験を前に、母と舞子高校のオープン・ハイスクールに行き、進学を決めることになる。

 美幸さんとは5歳離れていることもあり、高校生活が重なることはなかったが、初めて東日本大震災の被災地を訪れた時は一緒だった。仲良くさせていただき、今でもずっとつながっている。

 あの時、美幸さんと出会うことがなかったら、おそらく進学することのなかった環境防災科で3年間を過ごし、多くの外部講師の人たちから震災当時のことを教えていただいた。

震災から15年を迎え、思いを語る当時高校3年の小島汀さん=神戸市東灘区本庄町1

 また、当時の環境防災科長だった諏訪清二先生は、とにかく私をさまざまな場で前に出してくださった。

 防災フォーラムでの登壇やパネリストとしての語りなど、人前で幾度となく「震災を語る」機会をいただいた。

 「台本はいらん。そのときの思いを語ればいい」。先生のその言葉を信じて前に出た3年間だったが、人に語ることで自分の思いに気づくことが多くあった。(小島 汀)